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  • 神聖ローマ帝国 - Wikipedia

    神聖ローマ帝国 (しんせい―ていこく、 ドイツ語 : Heiliges Römisches Reich 、 ラテン語 : Sacrum Romanum Imperium 、 962年 - 1806年 )は、中世に現在の ドイツ 、 オーストリア 、 チェコ 、 イタリア 北部を中心に存在していた政体。首都はなかった。 帝国 というより ...

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    [編集] 神聖ローマ帝国 関係する引用句。 [編集] 引用句 神聖でもなければ、 ローマ 的でもなく、そもそも帝国ですらない。 -ヴォルテール

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神聖ローマ帝国

神聖ローマ帝国 しんせいローマていこく Holy Roman Empire
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

962~1806年に西ヨーロッパに存在したドイツを中心にした政体。11世紀にはローマ帝国、12世紀には神聖帝国と称され、13世紀になってから神聖ローマ帝国とよばれるようになった。帝国の領域は時代によって変化したが、ほとんどはドイツ人の国で、10世紀以降の皇帝はドイツ人王から選出された。

II

帝国成立の経緯

神聖ローマ帝国は、5~6世紀に崩壊しゲルマン諸侯の独立王国にとってかわられた西ローマ帝国を復興しようとしたものだった。ローマ帝国の帝位は、476年に西ローマ帝国皇帝ロムルス・アウグストゥルスが退位したあと、空位のままだった。

中世初期の激動の時代にも、地上の王国と教会の支配する精神的王国とは同一の広がりをもつという伝統的観念が、ローマの人々の間に生きつづけていた。コンスタンティノープル(現イスタンブール)を首都として東ローマ帝国の諸州を支配していたビザンティン帝国は、かつての西ローマ帝国領には名目的な統治権しかもっていなかった。また、その地域を実際に保持するゲルマン諸部族の多くは、ビザンティン皇帝を形式上大帝とみとめているにすぎなかった。さらに、ローマ教皇たちは、ロムルス・アウグストゥルスが強制的に退位させられたあと、ひきつづき東ローマ帝国の主権をみとめていたが、それはランゴバルド王国に対抗するため、ビザンティン帝国の保護を必要とするという理由からであった。

III

高まる緊張

6~7世紀、ゲルマン諸部族がキリスト教を受容する独立諸王国をつくっていくと、西ヨーロッパでのビザンティン皇帝の政治的権威はなくなっていった。西方教会の宗教上の影響力は、とくに教皇グレゴリウス1世の在位期間中(590~604)に拡大した。教皇庁は、コンスタンティノープルが世俗上・宗教上の権威をかさに西方教会に干渉してくることに、反発を強めた。

西方教会(ローマ教会)と東方正教会(コンスタンティノープル教会)との長い反目は、式典で聖像をもちいることを禁止しようとしたビザンティン皇帝レオ3世治世下(717~741)で、危機的な段階にいたった。教皇はこの聖像禁止令に反対し、ついにコンスタンティノープルと決裂した(730~732)。

この後、教皇庁は西ローマ帝国の復活という夢をいだきはじめた。軍事力と行政力に欠ける教会聖職者たちは、イタリア半島でのランゴバルド族の脅威をとりのぞくために、神の国と地上の国の合一という考えをすて、現に西ヨーロッパに君臨するフランク王国に、帝国の地位をさずける決断にかたむいた。それまでもフランクの支配者たちは教会に忠誠をちかっていたが、768年にフランクの王位についたカロリング朝カール大帝は、773年にランゴバルド王国を征服し、かつて帝国がもっていた範囲にまで領土を拡大して、聖職者たちにじゅうぶんな能力をみせつけた。

IV

西ローマ帝国

800年12月25日、教皇レオ3世は、カール大帝に皇帝の冠をさずけた。これで教皇は、皇帝を選任して即位させ、場合によっては退位させる権利をえたことになり、この権利はこののち700年にわたって少なくとも理念上は主張された。復活した西ローマ帝国が有効な政体として存続したのは、814年のカール大帝の死後25年にみたない間だけだった。カール大帝の息子ルートウィヒ1世の治世は、兄弟間の紛争がつづき、843年、帝国は分裂するにいたった。

それにもかかわらず、教皇は9世紀中、おもにカロリング朝内で西ローマ帝国の組織と称号を維持した。しかし、自国領土をでれば皇帝の権威はほとんどなかった。イタリア王でランゴバルド王国の支配者でもあったフリウリのベレンガーリオ1世は、教皇ヨハネス10世から帝冠をさずけられたが、彼の治世(905~924)がおわると、帝位はほぼ40年間空位となった。

この時期、東フランク王国、すなわちドイツが、ハインリヒ1世オットー1世の手腕によってヨーロッパの最強国としてたちあらわれた。有能で野心にみちたオットー1世は、ローマ・カトリック教会の情熱的な友でもあった。オットーは、聖職者を大臣に起用し、エルベ川以東の地でキリスト教の布教につとめ、教皇ヨハネス12世の命をうけてイタリア王ベレンガーリオ2世討伐の遠征をおこなった。962年、ヨハネス12世はオットーの貢献をみとめ、皇帝の冠と称号をあたえ、ここに神聖ローマ帝国が誕生した。

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