Windows Live® の検索結果
Windows Live® の検索結果 ページ 6 / 7
項目構成
日本では、石炭をさまざまな言葉で表現してきた。もえいし(燃石・石炭)、すくも、いしずみ(石炭)、からすいし(烏石)、たきいし(焚土)、五平太などである。古くは「日本書紀」に「燃ゆる土」、平安中期の「本草和名」(→ 深根輔仁)には「石胆」という記述があるが、それらが石炭であるかどうかは明確でない。 石炭が記録として登場するのは17世紀中ごろからで、佐々木氏郷の「江源武鑑(こうげんぶかん)」には近江国武佐(現、近江八幡市)産の「すくも」の記事がみられ、貝原益軒の「大和本草」には、石炭(もえいし)についての記述があらわれる。同じく貝原益軒は「筑前国続風土記」で、筑豊地方では薪のない村で「燃石」を多くつかっているとのべ、寺島良安の「和漢三才図会(わかんさんさいずえ)」には、筑前国や長門国では石炭(いしずみ)を薪のかわりに利用しているとある。つまり石炭は基本的に薪の代用燃料だったが、悪臭を生じたので、あまり広くはつかわれなかったようである。 18世紀後半には製塩用燃料として石炭は本格的に利用されるようになり、瀬戸内海沿岸の塩田地帯では、製塩用に原炭のままもやす焚石(たきいし)の販路が拡大した(→塩の「日本の塩作りの歴史」)。こうして石炭の市場が開けていくと、石炭を産する諸藩は石炭を専売制にして財政を強化するようになる。福岡藩では国産専売仕法をつくって焚石会所を設置し、石炭の採掘・販売の統制をおこなった。幕末には、江戸幕府(徳川幕府)が蒸気船(→ 船舶)の燃料用石炭を筑豊にもとめ、御用炭として江戸におくらせたが、これは明治維新後に筑豊を全国一の石炭生産地にする重要な契機となった。 日本における炭鉱の近代化は、1868年(明治元年)にはじめて機械を導入した九州の佐賀藩(鍋島藩)の高島炭鉱(→ 長崎市高島町)の開坑によりはじまった。佐賀藩は高島炭鉱を藩営にしてその権益を独占し、その後イギリス人トマス・グラバーとの共同経営によって69年からは本格的な出炭を開始した。また明治初期には、北海道開拓使庁(→ 開拓使)のベンジャミン・ライマンによる地質調査にもとづき岩内と幌内(→ 三笠市)に炭鉱を開発し、その後も夕張、空知などの開発をすすめた(→ 石狩炭田)。19世紀中ごろまでには北海道や常磐(→ 常磐炭田)、また九州では長崎に近い高島、唐津、三池(→ 三池炭田)の炭鉱開発がすすんだ。
明治政府は当初、高島・三池の炭鉱を官営とし、1873年(明治6年)には日本坑法によって鉱物資源をすべて官有にしたため、石炭業をはじめとする鉱山業者は政府から鉱区を借用して経営することになった。官営鉱山は技術的には外国人の指導によって開発がすすめられ、その後多くは三井や三菱などの政商に払い下げされたが、90年代末に中国・東南アジア市場への船舶用燃料炭の輸出急増にともなってほかの民間資本の参入もすすみ、日本の近代石炭産業が確立した。→ 筑豊炭田 しかし、採炭はほとんど手作業であり、飯場制度(はんばせいど)、納屋制度などが採用され、低賃金と劣悪な労働条件のもとで、なかば強制労働に近い労務管理が横行した。過酷な労働条件に対して坑夫たちの暴動がたびたびおこる炭鉱もあり、高島炭鉱問題をはじめとする事件が社会問題化した。その後、待遇改善を目的としたいくつかの法律が制定されたが、第2次世界大戦後になるまで実質的な坑夫保護は実現しなかった。
第1次世界大戦後には石炭産業は活況をみせるが、1920年(大正9年)の戦後恐慌(→ 恐慌)から30年代初めまでは石炭不況の時代がつづいた。このころ大手炭鉱で採炭用機械が導入され、長壁式採炭法が採用されると、経営合理化のために20万人におよぶ人員整理がおこなわれた。準戦時体制から第2次世界大戦にかけては、石炭鉱業連合会が本格的な送炭制限・輸入制限を実施し、昭和石炭株式会社が販売統制をおこなうとともに、40年(昭和15年)に石炭配給統制法が施行された。戦時統制下では、朝鮮人・中国人の強制連行のほか勤労報国隊(→ 勤労動員)も組織されて増産運動が推進され、40年には約5600万tという、史上最高の生産量を記録した。
戦後、石炭産業は鉄鋼業、肥料工業、電気事業とならんで経済復興の主役をはたし、朝鮮戦争を契機とする石炭ブームにわいて、1951年には4650万tを生産した。しかし、50年代にはしだいに石油への転換がはじまり、石炭産業は深刻な不況へと突入していく。そして60年の三井三池闘争(→ ストライキ)に象徴される長期争議も、大量の人員整理と炭労(日本炭鉱労働組合)の政策転換闘争におわった。 その後、政府は第1次石炭対策(1962年)によって、石炭が石油に対抗できないことを前提としつつ石炭産業の自立化をめざし、スクラップ・アンド・ビルド政策による合理化を推進したが、閉山が急増し、1972年の第5次対策にいたるまで石炭不況にブレーキをかけられないまま、日本の石炭産業は大幅に整理・縮小されていった。ちなみに61年は5541万t(574鉱山)と戦後最高の生産高をしめしたが、75年には1860万t(35鉱山)にまで減少している。
日本の石炭産業が急速に衰退していった要因としては、世界的な石油へのエネルギー転換を背景に、主要エネルギー源としての地位をうしなっていったことがあげられる。そのほか、日本で産出する石炭が瀝青炭以下の低発熱量のものが多く、直接燃料にする以外の用途がかぎられていたこと、炭層の多くが1000~2000mの深い地下にあり、採炭のコストが大きいことも重要な要因である。日本の地質構造が複雑であることから、坑道を掘削していく途中で断層にぶつかったり、場所によっては、地熱による高温といった悪条件にであうこともある。採炭作業にはたえず落盤、異常出水、山はね(坑道内に岩盤の破片がとびちる現象)といった災害への対策が必要になるため、深さや炭質からは採算がとれると予想できる炭坑でも、ほかの設備コストや事故発生時の保障などで費用がかかり、価格面で石油や海外産の石炭に対抗できなかった。
|
© 2009 Microsoft
![]() ![]() |