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Windows Live® の検索結果 987~1328年にフランスを統治した王家。987年のルイ5世の死によって西フランク(→ フランク王国)を支配していたカロリング家の血統がとだえ、パリ伯ユーグ・カペーが聖・俗の大諸侯によって王にえらばれた。しかし、当時のカペー朝の所領は、パリを中心とするイルドフランスとよばれる地方だけで、国内は大諸侯がそれぞれ統治するいくつかの領邦にわかれていた。 カペー朝は長子相続制を採用して王領地の分割を防止し、支配の前半期には、在位中に息子を共同王位につけることによって王位の世襲を明確にした。また教会の権威を利用して、諸侯に対する優位をうちかためた。こうして、カペー朝はフランス国家としての歴史をつくりあげていった。 対外的にはイングランドとの関係が大きな問題となった。ルイ7世(在位1137~80)が王妃エレオノール(アリエノール・ダキテーヌ)と離婚した際、エレオノールの再婚相手がヘンリー2世としてイングランド国王に即位(1154)したため、フランス国内の半分をこえる広大な土地がイングランド領になってしまうという事態が生じた。次のフィリップ2世(在位1180~1223)が、イングランド国王ジョン(欠地王)からその大半を回復したが、フランス国内にイングランド領が存在することは、以後両国間に数度の長い戦争をひきおこす原因となった。 国内的には、王領地の確保と拡大、諸侯との封建的主従関係の確立によってカペー朝は王権を伸張し、13世紀後半のルイ9世(聖王、在位1226~70)の治世時に、ほぼフランス全土を王のもとに統合することができた。さらに、フィリップ4世(在位1285~1314)の治世時に司法・行政組織が整備され、1302年には三部会をひらいて国内諸勢力の支持をかため、教皇を圧迫するまでに王権を強めた。 しかし、1328年のシャルル4世(在位1322~28)の死によってカペー家直系の男子相続人がとだえ、フィリップ4世の甥フィリップ・ド・バロワがフィリップ6世として王位につき、バロワ朝がひらかれた。
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