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  • 能 - Wikipedia

    能 (のう)は、 鎌倉時代 後期から 室町時代 初期に完成を見た、 日本 の 舞台芸術 の一種であり、 重要無形文化財 であり ユネスコ 無形文化遺産 である「 能楽 」の一分野である。その起源は議論の分かれるところであり正確な事はわかっていない。

  • 能 狂言

    伝統芸能のポータルサイト。能狂言の基礎知識、公演情報、インタビューなどを公開。携帯サイト能狂言モバイル

  • 能楽協会

    世界遺産能楽(能、狂言)に関する幅広い解説、曲目紹介、全国能楽堂案内、学生鑑賞会や派遣授業などの普及活動紹介、書籍案内等。 ... 2009年11月09日 「第50回記念 式能」情報公開 2009年11月01日 「君にもできる能の世界−体験と観賞−」参加者受付中

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能 のう
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

日本の中世に成立し、現代に継がれている歌舞をともなう演劇。猿楽の能・田楽の能・延年の能などがあるが、今日ふつうに能というときは猿楽の能をさす。

II

起源

猿楽は、奈良時代に大陸から輸入された散楽を母胎にすると考えられている。散楽は中国の庶民芸能で、曲芸や軽業、幻術、滑稽なものまね、即興的な歌舞など、種々雑多な芸を鼓・太鼓・笛といった楽器伴奏で演じた芸能であった。日本では始めは雅楽とともに朝廷の保護下にあったが、やがてその手をはなれて民間に拡散。平安時代には滑稽なものまねや道化芸など、笑いの芸が中心になった。猿楽という言葉は、かつてはそれらの諸芸の総称であったが、やがては笑いの芸に意味が限定され、演者も猿楽とよぶようになった。

その後、寺院の正月行事である修正会(しゅしょうえ)・修二会(しゅにえ)といった仏事で芸能をおこなう呪師(しゅし)たちや、祝福の祈祷(きとう)をして各地をめぐる翁猿楽()たちとむすびつき、を組織して大和・近江・河内・丹波などの有力寺社に付属して活動した。鎌倉時代中期以降は、僧侶たちが法会のあとに余興に演じた延年の影響などもうけながら、しだいに滑稽なものまねや道化的寸劇からわかれて、歌舞を中心とした能を考案し演じるようになった。鎌倉時代の末期には、能と翁猿楽が猿楽の本芸になっていたと推定されている。一方、猿楽が本来もっていた笑いの芸は、別に発達して狂言にひきつがれていった。

能の生成過程については不明な点が多いが、猿楽と発生をことにする田楽が能をとりいれるようになると、たがいにきそって能の発達をうながした。田楽は田の神をもてなす素朴な神事を起源とし、本来は一年の農耕のようすを春先にあらかじめ演じて、秋の豊かな実りをいのる行事であったが、平安時代には神事をはなれて娯楽の要素を強めていく。この芸能は広く流行し、専門の芸人が生まれて各地に座が組織された。一座はササラ・腰鼓・笛・胴拍子などの楽器で囃(はや)す集団の田楽踊りと、散楽系の曲芸を主体にして、猿楽と同じように社寺の祭礼や法会の場などで活動した。

III

観阿弥と世阿弥

猿楽と田楽はたがいに影響しあう関係だったが、鎌倉時代から室町時代の初期にかけては、名手を輩出していたことなどもあり、むしろ田楽のほうが人気が高かった。しかし、大和猿楽に属する結崎座(ゆうざきざ:今の観世流)のスター役者、当時42~43歳の観阿弥と12歳の子世阿弥の芸が、時の将軍足利義満にみいだされ、しだいに猿楽が田楽より優位にたち、他の芸能をも圧していくようになる。それは1375年ごろ洛東今熊野で能を演じたおりのことで、以後義満は強力に観阿弥父子を後援した。

すぐれた役者兼作者であった観阿弥は音楽面にすぐれ、情緒を重んじる近江猿楽の芸風や、名手とうたわれた田楽本座の一忠の風体などを手本にしながら、ものまねが基本で力感を旨とする大和猿楽に新風をふきこんだ。特筆されるのは、白拍子の芸をひく当時流行の曲舞(くせまい:幸若舞)のリズムを、猿楽能の伝統的な小歌節のメロディの中に生かしたことである。変化にとむ「観世の節」の考案は、今熊野で義満にみいだされる要因ともなったが、能の構造にも大きな影響をあたえた。

観阿弥が52歳で駿河に客死すると、猿楽を代表する役者として近江猿楽の犬王が活躍をみせた。犬王は義満や貴族がこのむ気高く趣きの深い芸風をもち、観阿弥の後継者である世阿弥を刺激しつづけた。世阿弥は、犬王や謡いまわしの巧みな田楽新座の亀阿弥らを手本に、やがて「源氏物語」や「平家物語」のヒロインやヒーローを主人公にした夢幻能という作風を確立し、猿楽の第一人者となっていく。結果的に、観阿弥・世阿弥父子がしめした方向にそって、能は今日にまでつたわることになった。

IV

能をささえた人々

観阿弥・世阿弥によって大成された能は、応仁の乱(1467~77)に端を発した戦乱で滅亡の危機にひんしたが、織田信長豊臣秀吉徳川家康といった戦国大名のもとで命脈をたもった。とりわけ秀吉は能好きで大和猿楽の金春(こんぱる)をならい、このことが観世・宝生・金剛をふくむ大和猿楽四座の庇護につながった。近江・丹波など他の猿楽座が大和猿楽四座に吸収されるような形で能は復興していく。

秀吉没後に天下を統一した家康も、秀吉の政策をひきついだ。家康は室町幕府の有力大名今川氏の人質だった幼年期に能にしたしみ、観世座とは縁が深かった。家康没後も徳川幕府は四座に扶持(ふち)をあたえて保護し、幕府御用の芸能として正月の謡初(うたいぞめ)をはじめ、将軍宣下や勅使饗応など主要行事に重用した。能役者は幕府の庇護をうける一方で、技芸をおこたらぬよう、家業の古法をまもることなどが細かく規制された。こうして演目が固定化し、演技の様式性も高まった。

能はその大成期からずっと為政者である武家にそだてられてきたといえる。ただ、能と切りはなして歌謡(謡(うたい):謡曲)だけをたのしむこともはやくからおこなわれており、室町時代後期からは一般の階層にも愛好者が広がった。印刷技術が発達すると謡本(うたいぼん)も多数発行され、江戸時代の文芸に大きな影響をあたえた。この点では庶民も能をささえていたといえる。江戸幕府の解体と明治維新の動乱期、太平洋戦争後の混乱期など、近代に入ってからも能はたびたび消滅の危機にさらされたが、そのつどのりこえて今日の盛況にいたっている。江戸時代を通じて、能の音曲の魅力を幅広い層がうけいれていたことも要因のひとつである。

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