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ドイツの歴史的地名。王国および州となったが、第2次世界大戦後に消滅した。19世紀末に領土は最大となり、北はバルト海、北海に面し、西はベルギー、オランダ、フランス、ルクセンブルク、東はロシア、南はオーストリアに接した。 近現代のプロイセンは、領土の変遷をともないながら、独立のプロイセン王国(1701~1871)、ドイツ帝国の中心となる王国(1871~1918)、ワイマール共和国の中心をなす州(1919~33)と展開したが、ナチスによる第三帝国(1933~45)のもとでは行政上の1単位にすぎなくなった。 第1次世界大戦後の1919年、ベルサイユ条約によって西プロイセンその他がポーランド領となり、バルト海への出口となるこの地域はポーランド回廊とよばれた。東プロイセンは、他のドイツ・プロイセンとはなれて、飛び地としてのこされた。そのほか第2次世界大戦までの戦間期にプロイセンにのこされたのは、ライン、ブランデンブルク、ポンメルン、ベルリン、ザクセン、シュレスビヒホルシュタイン、ハノーファー、ウェストファリア、グレンツマルク(現ポーランド)、ヘッセン・ナッサウ、ホーエンツォレルン、シロンスク(現、一部ポーランド、一部チェコ)であった。 第2次世界大戦後の1947年にプロイセンは解体され、東プロイセンをのぞいて、フランス、イギリス、アメリカ、ソ連の4占領地域に区分された。東プロイセンは北東部がソ連に併合されたが、残りはポーランドの行政管轄のもとにおかれた。
プロイセンという地名は、史料ではプルシあるいはボルシとして登場する人々に由来する。彼らは、リトアニア人と同じくインド・ヨーロッパ語族のバルト支族に属し、ビスワ川とネマン川にはさまれる流域にすんでいた。 10世紀にザクセン人が東ヨーロッパに侵入し、プロイセン人をキリスト教化しようとこころみたが失敗した。997年には布教中のボヘミア司教アダルベルトがプロイセンで殉死している。彼らがキリスト教に帰依したのは、13世紀中ごろにドイツ騎士修道会がこの地を征服し、ドイツ人とオランダ人の入植者をおくりこんでからである。13世紀末までにこの地域は完全に支配され、以後ドイツ騎士修道会が教皇からの封土として統治した。 14世紀後半、騎士修道会の支配に対する不満が東ヨーロッパでまきおこった。1386年にポーランドとリトアニアは連合王国を結成し、1410年のタンネンベルクの戦でドイツ騎士修道会をうちやぶった。その後再度の戦争をへて、66年に締結された第2次トルン条約は、東プロイセンを騎士修道会の保有地としてのこしたが、ポーランド王からの封土という条件だった。西プロイセンはポーランドに割譲され、「王領プロイセン」とよばれた。 プロイセンでの最後のドイツ騎士修道会総長となったホーエンツォレルン家のアルブレヒトは、1525年にルター派に改宗し、みずから初代プロイセン公となったため、東プロイセンは世俗公領となり、「公領プロイセン」とよばれた。1618年、公領プロイセンは、ポーランドの属国のままホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントに委譲された。そして、ヨハンの孫の大選帝侯フリードリヒ・ウィルヘルムは、60年のオリバ条約によって、公領プロイセンのポーランドからの独立をはたした。彼は公領を中央集権化し、それまで貴族と都市によって行使されていた統治権限をわがものとした。
フリードリヒ・ウィルヘルムの息子は、神聖ローマ皇帝レオポルト1世から軍事援助の約束と引き換えに王の称号をゆるされ、1701年にプロイセン国王フリードリヒ1世として即位した。その息子フリードリヒ・ウィルヘルム1世は、軍備を大幅に増強した常備軍を中核にして国家組織を再編し、次のフリードリヒ2世大王に莫大な財政備蓄とヨーロッパ最強の軍隊をのこした。フリードリヒ大王は、軍事上の天賦の才によってプロイセンをヨーロッパの大強国にのしあげ、40年にはオーストリア領シュレジエンに侵攻し、オーストリア継承戦争にくわわった。 1763年の七年戦争の終結までにシュレジエンを領土にくみこみ、72年にはポーランド王領プロイセンを併合、こうして東のプロイセン王国を西のブランデンブルクおよびドイツ中心部にむすびつけた。フリードリヒ大王の治世は内政面での諸改革もすすみ「啓蒙(けいもう)絶対主義」の典型とみられている。 1797年に王位をついだフリードリヒ・ウィルヘルム3世は、大臣シュタインとハルデンベルクの助けをかりて、自由主義的諸改革を実施した。ナポレオン戦争時の1801~05年、プロイセンはナポレオン1世に支配され、06年にフリードリヒ・ウィルヘルム3世は対ナポレオン同盟に参加したがやぶれて領土の多くをうしなった。しかし、フランス帝国の崩壊をもたらした15年のワーテルローの戦のあと、プロイセンにふたたび幸運がめぐってきた。
ウィーン会議のあと、プロイセンは西ヨーロッパでドイツを代表する勢力として浮上し、ほとんどのドイツ諸国が経済的にプロイセンとつながれた。ウィルヘルム1世とプロイセン首相兼帝国宰相ビスマルクのもとで、プロイセンは権勢の絶頂に達した。ビスマルクは1864年にデンマークとの戦争を、66年にプロイセン・オーストリア戦争を、70年にはプロイセン・フランス戦争をひきおこした。3つの戦争に勝利したプロイセンはドイツ帝国の盟主の座にかけのぼった。以後、プロイセンの歴史はそのままドイツの歴史となる。 第2次世界大戦後の1947年、プロイセン州は、戦後のドイツ処理を目的として結成された連合国管理委員会によって解体された。
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