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中央アメリカ最南部のパナマ地峡を横断し、カリブ海と太平洋をむすぶ運河。カリブ海側のリモン湾にのぞむクリストバルから、パナマ湾岸のバルボアにいたる。両端には運河本体と海をむすぶ水路がつくられており、全長は約80km。パナマ運河は、地中海と紅海をむすぶスエズ運河とともに、国際海上交通に重要な役割をはたしている。
カリブ海側から運河に入るには、7kmほどの水路を通過しなければならない。そこから運河本体が11kmにわたってやや西方向につづき、やがてガトゥン閘門(こうもん)に達する。ここで船は連続的に開閉する3つの扉により26mほど上昇し、ガトゥン湖に入る。 ガトゥン湖は、閘門に隣接するガトゥン・ダムによってチャグレス川をせきとめた人造湖である。ガトゥン閘門は、ほかの閘門と同様に2経路用意されているので、湖に入る船と湖から出る船を同時にとおすことができる。閘門にはさまれた部分は、運河全体で約300mに達し、幅は約33mである。 ガトゥン閘門をへてガトゥン湖に入った船は、南に、ついで南東方向にすすみ、ゲイラード・カット(旧称クレブラ・カット)とよばれる全長13kmの掘り抜き水路にいたる。水路の終点部分にはペドロ・ミゲル閘門があり、ここで約9m下降して、太平洋より約17m高水位にあるミラフロレス湖に入る。 ミラフロレス湖を2.1kmすすみ、2つの扉をもつミラフロレス閘門に達する。ここで太平洋と同じ水位まで下降し、4km先にあるパナマ湾岸の港バルボアにいたる。そこから水路をおよそ8km航行し、太平洋に出る。 運河の機能を補助するために、さまざまな付属施設がもうけられている。たとえば、乾季もガトゥン湖の水位を維持するため必要な水を供給するチャグレス川沿いのマデン・ダム、水路保護のため運河の両大洋岸につくられた防波堤、ガトゥン・ダムとマデン・ダムの水力発電設備、運河のカリブ海側のコロンから太平洋岸のパナマ市まで76.6kmにわたって敷設されたパナマ鉄道などがある。運河の通過に要する時間は8~10時間である。
大西洋から太平洋にいたる短縮交通路をもうけるという考えは、16世紀初頭に中央アメリカをおとずれた探検家たちにはじまる。メキシコを征服したスペイン人コルテスは、メキシコのテワンテペック地峡への運河建設を構想していた。ほかの探検家たちは、ニカラグアやダリエンをとおる経路に関心をもった。 パナマ地峡に運河を建設する最初の計画は、神聖ローマ帝国皇帝カール5世が提唱し、1523年に同地峡の調査を命じている。29年には実行計画が立案されたが、皇帝には提出されなかった。34年、現地のスペイン人執政官が現行運河に近いルートを提案し、その後も運河計画は何度か出されたが、実行にうつされることはなかった。
スペイン政府は運河建設への関心をうしなったが、19世紀に入ると、ドイツ人科学者フンボルトの著書により、運河建設への関心がふたたび高まった。1819年、スペイン政府は運河建設と建設会社の設立を正式に決定した。しかし、この努力は実をむすばず、しかもスペイン領植民地の独立により、候補地にはスペインの支配がおよばなくなってしまった。 中央アメリカ諸国は、運河建設を実現させようとアメリカ合衆国やヨーロッパの関係各方面にはたらきかけ、アメリカでは議会の懸案事項となった。1848年、カリフォルニアで金鉱がみつかり、ゴールドラッシュがおこった。金をもとめて人々の大群がカリフォルニアにおしよせるようになると、それが刺激となってアメリカで運河建設への関心が高まった。 1850~75年にさまざまな測量調査がおこなわれ、その結果、実現可能なルートは2つにしぼられた。1つはパナマ地峡を、もう1つはニカラグアを横断するものだった。76年、国際合弁会社が設立され、2年後、当時パナマが帰属していたコロンビア政府からパナマ地峡運河の開削権をあたえられた。
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