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メソポタミアとはギリシャ語で「河の間」を意味し、ティグリス、ユーフラテス両河にはさまれた、現在のイラクとシリア東部の地域をさす。前4千年世紀末この地で世界最古の都市文明が誕生し、その後多くの文明が興亡をくりかえした。 トルコからながれでる全長1850kmのティグリス、全長2800kmのユーフラテス両河は、水源近くでは約400kmの間隔をおいて南東方向にながれ、ペルシャ湾の手前200kmほどで合流し、以後はシャッタルアラブ川となる。川筋や平原は毎年一定の時期に洪水になりやすく、北部や東部は丘陵地帯、西側は砂漠や乾燥した草原地帯、ステップとなっている。肥沃(ひよく)なメソポタミアの地は近隣諸民族の標的となり、流入や侵略がくりかえされた。この地域の大部分は一時期をのぞき年間を通じては雨にとぼしいが、用水路によって灌漑(かんがい)されると、肥えた土地は豊かな作物をもたらした。南部ではナツメヤシがそだち、食物、繊維、木材、飼料を供給した。両河では魚が、南部の沼地では水鳥がとれた。このようなめぐまれた自然を背景としてメソポタミア文明は誕生、発展した。
古代のメソポタミア南部では、土地を灌漑するために用水路網を整備することと、他民族の侵入をふせぐために城壁をもった居住区が必要だった。初期農耕をおこなう防壁集落がエリコで前7500年ごろからはじまり、前4千年紀末には都市に成長した。都市としてのもっともよい例はウルクにみられる。そこでは日干しレンガで神殿がたてられ、金属や石材の加工がおこなわれ、また行政的な必要から楔形文字が発明された。この初期の都市文明はシュメール人(→ シュメール)によってきずかれ、しだいにユーフラテス川北部へとひろがっていった。主要なシュメールの都市には、ほかにアダブ、キシュ、ニップール、ウルなどがある。 前2335年ごろ、この地域はメソポタミア中央部からきたセム系のアッカド人に征服され、サルゴン(在位、前2335頃~前2279頃)がアッカド王朝をひらいた。この時代にはアッカド語がシュメール語にかわって主流になった。しかし、東部の山岳民族グティ人がアッカド人の支配をおわらせ、その後しばらくしてシュメール人のウル第3王朝がメソポタミアの大半を支配した。この王朝において、シュメール人の伝統的な文化は最後の花をひらく。 前2004年ごろ、ウルの町はイラン南西部から侵入してきたエラム人によって破壊された。ほかのシュメール都市はことなるいくつかの民族に支配され、どの都市国家もメソポタミア全体を支配するにはいたらなかった。その後バビロンのハンムラピ(在位、前1792~前1750)が治世の晩年に国土を統一したが、まもなく小アジアにおこった新興勢力のヒッタイトに略奪され、前1595年ごろ、バビロンは陥落した。その後の4世紀間、バビロンは非セム系のカッシートの支配をうけた。いっぽう北部のアッシュールでは、カフカス方面からきたフルリ人がミタンニ王国をおこした。フルリ人はアルメニア人に近いとされ、メソポタミアに何世紀も前からすんでいたが、前1700年以降は北部メソポタミアからアナトリアにまでひろがった。
北部メソポタミアのアッシリア王国は前1350年ごろから勢力を拡大しはじめた。ミタンニをやぶり、バビロンを征服し(前1225頃)、地中海にまで領土はひろがった(前1100頃)。ところが、シリアのステップからあらわれたアラム人がアッシリアの拡大をとめ、その後2世紀にわたって、民族的に近いカルデア人とともにバビロニアを支配した。アッシリアは防衛のためにこれらの勢力とたたかって侵入をゆるさず、前910年以後ふたたび勢力は拡大した。最盛期のティグラトピレセル3世のときには、エジプトからペルシャ湾までの中東を支配する世界帝国となった(前730頃~前650頃)。 アッシリアは、征服した土地の住民をアッシリア本土に移住させ、あとにはほかの地域の住民をいれるなどして支配を強化した。それは結果的には帝国全土にわたって人種の融合をすすめることになった。また、たび重なる反乱に対処するため、強力な軍隊機構がつくられた。しかし、広大な国土を長い間維持しつづけることはできなかった。国内でイラン系のメディア人やバビロニアのカルデア人が勢力を拡大し、前612年にアッシリアはこれらの勢力によって内部から崩壊した。帝国の領土は2つにわけられ、山岳地方はメディア人が領有し、メソポタミアはネブカドネザル2世ひきいるカルデア人が領有した(新バビロニア)。ユダ王国を征服した前586年には、住民を強制的にバビロニアに移住させている(バビロンの捕囚)。いっぽうカルデア人は前539年までメソポタミアを支配したが、キュロス2世ひきいるペルシャがバビロンを攻略し、メディア王国もほろぼした。
ペルシャ帝国(アケメネス朝)のもとで、メソポタミアのバビロンやアッシュールにサトラップ(地方総督)がおかれた。バビロンは首都ではなかったが、帝国内で重要な役割をもっていた。ひろく話されていたアラム語が共通語となり、帝国は行政的にも安定、東方とも商取り引きをおこない、繁栄をほこった。しかしペルシャの支配の仕方は基本的には圧政だったので、治世は長くはつづかなかった。
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