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アジアのナショナリズムはヨーロッパのそれとは根本的にちがった性格をもっている。なぜならば、ヨーロッパのナショナリズムは自生的な民族意識の発生にもとづいたものであるのに対して、アジアのナショナリズムはヨーロッパ列強による植民地化を契機にして外圧によって発生したものだからである。アジアのナショナリズムは、ヨーロッパ列強の植民地化に対する対応の仕方としてあらわれ、それゆえに主たる担い手層の相違など各国によって事情がことなっており、その性格も相違している。 こうした事情のため、アジアのそれは「植民地型ナショナリズム」と「非植民地型ナショナリズム」とに大きくわけられる。前者はインドや中国、インドネシア、ベトナムなどであり、これはアフリカの国々にも多くみられる。これに対して、後者は日本とタイにかぎってみられる。前者は、ヨーロッパ列強による植民地化を契機とする被支配層の政治的・経済的・文化的な解放運動であった。いっぽう、後者は、ヨーロッパ列強に対する伝統的特権支配層の政治的・経済的・文化的な防衛運動であった。 日本とタイが植民地化をまぬがれたのは、ひとえに支配層による自己防衛運動によって中央集権国家の建設にまがりなりにも成功したからである。しかし、それゆえに、国民が自己解放運動をとおして政治的に成熟することのないまま今日にいたっている。
インドは「植民地型ナショナリズム」の典型的な例である。イギリスは18世紀の後半以降、東インド会社をとおしてインドの植民地化を強化していった。インドの王侯や貴族たち旧支配層はみずからの利益がおかされたため、妥協して自らの存続をはかり、イギリスの植民地統治に寄生して、名目的な立場のみを保持するだけになった。 そうした状況下にあって、インドの抵抗運動をみちびいたのは、都市の官僚や会社員、商人たちであり、比較的豊かで社会的にも地位のある人々だった。1880年代以降の民族運動は、そうした人々が結成した国民会議派(1885年創立)が中心となって、イギリス流の制度を導入して展開されていくことになる。 20世紀にはいり、ガンディーがとなえた非暴力・不服従は、多くの農民や労働者たち被支配層をひきつけ、それまでのエリートの民族運動から大衆の民族運動へと転換していくことになった。インドの場合、ガンディーによってナショナリズムは「公的ナショナリズム」から「民衆ナショナリズム」へ転換したといえる。中国の場合は、毛沢東と周恩来が登場して抵抗運動を大衆化することに成功している。
植民地化をまぬがれたタイのナショナリズムはインドのそれとはまったくことなる。タイは19世紀後半に、ビルマ(ミャンマー)を植民地化したイギリスと、ベトナムを植民地化したフランスの圧力を東西からうけた。そのため、周囲の領有した地域をしだいに割譲しながらも、植民地争奪戦を展開していたイギリス・フランス両国の緩衝地帯となり、国内的には、ラーマ5世のチュラロンコン王(在位1868~1910)が、行政、軍隊、教育などの面に西欧の近代的制度を導入して、近代国家の建設をおこない、タイの独立をたもった。 タイは、西欧諸国がアジアで植民地争奪戦をしていた19世紀の後半に、はじめて自国の国境を画定した。そのため、国境の内部に多くの華人や少数民族(エスニック・グループ)をかかえることとなり、国家にとって国民の形成が大きな課題となった。国王は、彼らをタイ国民にするために仏教を布教し、その信仰をとおして国王崇拝を内面化させるとともに、小学校の義務教育化によってタイ語の普及につとめ、同化政策を実施してきた。宗教政策と教育政策をとおして国王への忠誠を達成し、そうした装置を介して国民の形成をはかったのである。
日本のナショナリズムは、タイと同様に「非植民地型ナショナリズム」にふくまれる。それは、西欧列強の開国要求に対して幕末維新時に主張された尊王攘夷論に由来している。当時は国内的には薩摩・長州らの倒幕の動きがはげしく、そうした動乱の世にあって、吉田松陰らは国学にもとづいて尊王攘夷をとなえ、それまで支配的であった幕府体制と儒教の教えを否定し、自然で素朴な古代にたちかえることを説いた。すなわち、最古の先祖の系譜をひいている朝廷・天皇にしたがいさえすれば、それが自らを神々の末裔(えい)につらねる行為であると主張したのである。 しかし、それは一時的なものでしかなく、そうした理念が新たに国民をつくりだしたわけではない。明治政府が西欧の制度を模して府県制・市町村制をしき、また税金や教育などの行政制度や議会制度をとりいれて中央集権を確立したことが、日本の近代国家の骨格をきずいたのである。しかし、これらの行政制度の近代化がすぐさま国民の形成に役だったわけではなく、日清戦争、日露戦争とその後の三国干渉などが契機となって、人々に日本人としての同胞意識をもたらしたのである。 日本の近代化の特徴は、天皇制の再編・強化によって国民の支配の正当化がはかられた側面を無視して論じることはできない。それゆえ、戦前の日本のナショナリズムの特徴は、国体論の中に端的にみいだすことができる。すなわち、国家は大きな家族であり、天皇は親、国民は子供であるとされ、子が親にしたがうように、国民は私をすてて公(国家・天皇)にしたがうことをもとめられた。 思想的には、天皇制は「家」と先祖崇拝の2つの制度に根ざしたイデオロギーである家族国家観によって正当化された。この家族国家観は植民地の併合問題を論じる場合、多民族国家論として姿をかえて提出されている。多民族国家論とは、日本は古代から「一視同仁」で異民族を同化してきた経験をもつとともに、日本の家族は非血縁者を養子としてうけいれることを原則としてきたというものである。多民族国家論はこうした論理を提供することによって植民地の皇民化政策を正当化する機能をはたしたのである。 台湾や朝鮮・韓国・満州を植民地化し、異民族を日本国の臣民として同化させることは、まさしく日本の「伝統」にのっとったものであると正当化されたのである。こうした観念は近代において日本固有の「伝統」として政治的に捏造(ねつぞう)され、国民の統合や植民地の同化政策などに利用されたのである。
第2次世界大戦後の日本のナショナリズムは、1960年代の後半以降顕著にみいだされる。政治の保守化と経済の自由化の波の中で、60年代の後半から政治家や文学者、さらに研究者の間で単一民族国家論が登場し、80年代以降盛んに論じられるようになった。 こうした意識は、経済大国の自覚と物質的に満足した消費生活とがもたらしたものであり、戦前の多民族国家論とは表裏一体の関係にある。すなわち、日本のナショナリズムは外にむかって拡大したときには「ウルトラナショナリズム」になり、反対に内にむかうと差別的なものになる。 そのほか、戦後では家永三郎の教科書検定、内閣総理大臣の靖国参拝、沖縄の基地、昭和天皇の葬礼とその後の国民的謹慎など、ナショナリズムをめぐる問題がくりかえし生起している。このようにみると、日本の社会が戦後も天皇制を存続させ、なおかつ中央官僚が強大な権力をもっていることが、日本のナショナリズムを顕在的、潜在的に再生産する可能性を内包しているのである。
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