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  • F.-F.ショパン Frédéric-François Chopin / CLASSICAL.pavane.jp

    F.シューベルト R.シューマン J.シュトラウス1世 J.シュトラウス2世 R.シュトラウス D.ショスタコーヴィチ F.-F.ショパン ... ショパンはワルシャワ音楽院でJ.エルスネルに学んだのち、ピアニスト、作曲家として成功。1830年にウィーンへ演奏旅行するが、直後 ...

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    <ショパント,F.F. のもくじ> ... 「華麗なる大円舞曲」(op.18)は普段良く聞かれるのですが,この曲はそれほどではありません。しかし,親しみやすい曲だと ...

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    このページは,F.F.ショパンのワルツ以外の曲のMIDIデータ集[[4社[Roland,YAMAHA,CASIO,AKAI]7種類のMIDI音源に対応]]です。 ... 某胃薬のCMでおなじみの曲です。もしかするとショパンの曲では,日本人に最も知られているものかもしれません。

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ショパン,F.F.

ショパン Fryderyk Franciszek(Frédéric François) Chopin
百科事典項目

1810~49 ポーランドの作曲家・ピアニスト。初期ロマン派ピアノ音楽を代表し、西洋音楽史上最高のピアノ音楽の作曲家との評価もある。

ワルシャワ近郊のジェラゾワ・ウォラでフランス人の父とポーランド人の母のもとに生まれる。4歳でピアノをならいはじめ、8歳のとき最初の公開演奏会がひらかれた。作曲の面でも早熟の才をみせ、7歳ですでにポロネーズを作曲し出版しているが、その後、ワルシャワ音楽院でさらに勉強をつづけた。

1829年、ピアニストとしてウィーンの演奏会で公式にデビュー。翌30年11月に再度同市をおとずれたとき、故国で反ロシア革命が勃発(ぼっぱつ)するが、まもなく革命は挫折し、やむなく帰国を断念する。31年にパリへうつり、ピアニスト・ピアノ教師・作曲家として活動する。

1837年、フランスの女流作家ジョルジュ・サンドと恋におち、38年、スペイン領マリョルカ島にわたるが持病の結核が悪化。サンドの献身的な介護をうけつつ、39年以後、夏はサンドの家があるノアンで作曲に専念し、その他の季節はパリでおもに演奏活動をしながらくらした。46年秋、2人の関係は破局にいたり、その後ショパンの健康は急速におとろえ、作曲に対する気力もうしなった。48年の活動はフランスとスコットランド、イングランドでコンサートを数回ひらいたのみにとどまる。49年、結核のためパリで死去。

ショパンの音楽はロマン主義の真髄をつたえるものであり、優美で繊細なメロディと、洗練された、しばしば大胆な和声、柔軟なリズム、あふれる詩情を特徴とする。装飾的で優美なメロディ・ラインには、イタリアのオペラ作曲家ベリーニとの類似性がみられる。

作品はほとんどがピアノ独奏曲で、マズルカ55曲、エチュード27曲、前奏曲24曲、ノクターン19曲、ポロネーズ13曲、ピアノ・ソナタ3曲など、多数の作品が生前に出版された。ほかにホ短調とヘ短調のピアノ協奏曲、チェロとピアノのためのソナタ、歌曲集「17のポーランドの歌」などの作品がある。

ショパンは1830年にポーランドをでたのち、二度と帰国することはなかったが、戦いにひきさかれた故国をつねに思いつづけていた。マズルカにはポーランド民謡のリズムとメロディの特色がもりこまれ、ポロネーズには熱烈な愛国心が息づいている。ショパンの和声書法やピアノ語法は、リストワーグナードビュッシーら、後世の作曲家に少なからぬ影響をあたえた。

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