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ルーマニア

ルーマニア Romania
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項目構成
VIII

歴史

現在のルーマニアにあたる地域が歴史にはじめて登場したのは106年ごろ、トラヤヌス帝に征服されてローマ帝国の属州ダキアとなったときである。当時の住民は、ギリシャ北部のトラキアから移動してきたダキア人が主体だった。そこにローマから植民者がおくりこまれ、道路や橋、城壁がつくられた。現在も黒海沿岸のコンスタンツァからドブロジア地方(ドブルジャ地方)、ドナウ川にかけてその遺跡がみられる。

3世紀のゴート族をはじめ、フン族スラブ人、トルコ系のブルガール人などの侵入を次々にうけたが、住民はローマ時代にとりいれたラテン文化をたもちつづけ、スラブ人との混血によってしだいに独自の民族集団を形成する。彼らはブラフ人(ワラキア人)とよばれ、隣接するビザンティン帝国にたえず脅威をあたえた。ブルガリアの支配下にあった9世紀には、東方正教会をうけいれている。

13世紀、ハンガリーの南下によりブラフ人はトランシルバニアアルプスの南や東カルパティア山脈東方におわれ、それぞれ土着の公を擁してワラキア公国、モルダビア公国を建設した。2つの公国はハンガリー王やポーランド王の宗主権をみとめたが、ハンガリーがモハーチの戦(1526年)でオスマン帝国に敗北したのちは、およそ300年にわたりオスマン帝国の支配下におかれる。16世紀末にはワラキアのミハイ公のもとオスマン帝国軍をしりぞけ、短期間ながらトランシルバニア公国をくわえた3公国の統一を実現した。モルダビア

しかし、ミハイ公が1601年に暗殺されるとオスマン帝国の支配が復活し、きびしい政治的抑圧がくわえられた。ワラキアとモルダビアは同じ東方正教会のロシアに援助をもとめた。オスマン帝国は18世紀初め、ロシアの影響力の増大を食いとめる目的でファナリオット制を導入し、帝国のえらんだ公に両公国の統治をゆだねる。ギリシャ人がしばしばこの要職についたため、ギリシャ語が公用語となった。

18世紀後半以降はオスマン帝国の衰退に乗じてロシアが影響力を強め、1802年には公の任命権を獲得した。さらにロシア・トルコ戦争での勝利により、12年、ロシアはモルダビア公国の一部だったベッサラビアをうばう。21年にはじまったギリシャ独立戦争を通じてオスマン帝国の支配はさらに弱まり、両公国は自治を拡大したが、その一方でヨーロッパ列強のバルカン地域への介入が強まった。

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統一と独立

クリミア戦争で敗北した結果、ロシアは両公国への影響力をうしない、ベッサラビア南部をモルダビアに返還した。1859年、両公国はモルダビアの貴族のクザを共通の公として統一され、ルーマニア公国となる。

1866年、ホーエンツォレルン家のカールがカロル1世として即位し、世襲権をオスマン帝国からみとめられた。77年にロシア・トルコ戦争がはじまると、カロルはロシア側にたって参戦し、オスマン帝国からの完全独立を宣言した。78年のベルリン会議でルーマニアは独立を承認されたが、見返りにベッサラビア南部をロシアに返還することになった。一方で、ルーマニアは北ドブルジアをえている。

1881年、ルーマニアは王国を宣言する。1912年の第1次バルカン戦争では中立をたもったが、13年の第2次バルカン戦争ではセルビア、ギリシャ側についてブルガリアを撃破した。戦後処理のブカレスト条約で、南ドブルジアを獲得し、バルカン最大の勢力としての地歩をきずいた。

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第1次世界大戦

第1次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると、ルーマニアははじめ中立の立場をとったが、1916年に連合国側で参戦し、ハンガリー領トランシルバニアに進撃する。ドイツ・オーストリア軍の反撃により17年1月には逆に国土の大部分を占領されたが、18年10月に連合国側の勝利が確定したのち、ルーマニアはトランシルバニアなどをふたたび占領した。オーストリアとのサンジェルマン条約およびハンガリーとのトリアノン条約により、ブコビナやバナトの大部分、トランシルバニアなどをえて、ルーマニアは戦前の約2倍の領土をもつ広大な国となった。また、ベッサラビアの領有権も連合国からみとめられた。

以後、第2次世界大戦までのルーマニアは、土地改革、たちおくれた経済の再建などの国内問題になやまされた。イオン・ブラティアヌの民族自由党政権(1922~26年、1927年)は実質的には独裁に近く、人口の半分以上を占める農民の反発をまねいた。対外的にも、ベッサラビアの領有権をめぐるソ連との対立をはじめとする領土問題をかかえていた。

1928年、民族自由党に反対するユリウ・マニウの民族農民党政権が成立し、30年にはマニウの助力で国王が亡命先から帰国、カロル2世として即位する。しかし、経済状態は悪化の一途をたどり、コドレアヌひきいるファシスト(ファシズム)組織「鉄衛団」の台頭で政治対立がますます激化した。38年、こうした状況を利用して、国王カロル2世が独裁制をしいた。

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第2次世界大戦

第2次世界大戦がはじまると、ルーマニアははじめ中立の立場をとっていたが、1940年6月、ドイツと不可侵条約をむすんでいたソビエト連邦(ソ連)がベッサラビアと北ブコビナを占領。さらにイタリアとドイツの圧力により、8月にトランシルバニア北部をハンガリーに、9月に南ドブルジアをブルガリアに割譲した。同じころ、ルーマニアはドイツに占領され、イオン・アントネスクの親ドイツ政権が成立する。カロル2世は亡命し、かわってミハイ1世が即位したが、実権はアントネスクと鉄衛団の手中にあった。

1941年6月の独ソ戦の勃発に際し、ルーマニアはドイツのソ連進攻に参加し、大戦に正式参戦した。ルーマニア軍はベッサラビアとブコビナを奪回し、12月にはアメリカ合衆国に宣戦を布告した。国内では民族農民党などが反戦運動をくり広げ、44年春、ソ連軍のルーマニアへの反撃がはじまるといっそう活発化する。8月、ソ連軍の入城と同時に国王ミハイと側近の軍人がクーデタでアントネスク政権をたおし、連合国への降伏をもうしでた。

1944年9月のソ連との休戦成立後、共産党、自由党、民族農民党などによる国民民主戦線が政権をとったが、ソ連を後ろ盾にもつ共産党がしだいに実権をにぎっていった。45年3月に耕民戦線のペトル・グローザを首班として成立した政権は、46年11月の総選挙をへて完全に共産党主導となった。47年12月、国王ミハイは退位し、ルーマニアは人民共和国を宣言する。48年4月にはソ連憲法をモデルとする新憲法が制定された。

この間、1947年2月には連合国との間にパリ講和条約がむすばれた。これにより、ルーマニアはトランシルバニア北部の領有をみとめられたものの、ほかの領土については40年におこなった譲渡が正当とされた。さらにソ連に対する重い賠償を課せられ、軍備を制限された。

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ソ連の影響下で

1948年から49年にかけての大きな変化は、文化機関がソビエト連邦(ソ連)をモデルに再編されたことである。ソビエト化の過程で反対派が次々に粛清され、西側諸国から人権侵害との非難が高まった。

1952年と65年に憲法が改正されたが、基本的にはソ連型の政治がつづいた。戦後を通じてルーマニアの指導者の地位は強固だったが、なかでもチャウシェスクは、65年に共産党第1書記に就任して以来、急速に頭角をあらわした。

1950年代には国有化と工業化が強力に推進され、60年代には年12%という東ヨーロッパ諸国で最高の経済成長率を記録する。1949年7月にはじまった農業の集団化も、わずかな私用地をのこして62年に完了した。

外交面においても、ルーマニアは戦後初期にはコミンフォルム(インターナショナル)、COMECON(経済相互援助会議)、ワルシャワ条約機構というソ連中心の組織と密接な協力関係にあったが、1960年代初めからしだいに独自路線をとるようになる。63年にソ連が提起したCOMECONの統合強化に対しても、ルーマニアは工業化推進の妨げになるとして反対をつらぬいた。60年代まで、ルーマニアの主要な貿易相手国はソ連・東ヨーロッパ諸国だったが、西側諸国との貿易や外交も60年代後半から徐々に深まった。

中国とソ連の対立に対してルーマニアは中立の立場をとり、1964年には中国を訪問したマウレル首相が仲裁をこころみるなど自主外交を展開した。チャウシェスクはワルシャワ条約機構を強化しようとするソ連の政策を批判し、68年のチェコスロバキアへの軍事介入(プラハの春)に際しては非難を表明した。

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