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ルーマニア

ルーマニア Romania
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1970~80年代

1970年代に入ると、ますます明確に独自の外交路線をあゆむようになる。69年にはアメリカ大統領ニクソンがルーマニアを訪問し、チャウシェスクも数度にわたって訪米した。72年にIMF(国際通貨基金)と世界銀行への加盟をみとめられ、76年には東側諸国としてはじめてEC(ヨーロッパ共同体)と協定をむすぶ。77年にはエジプトのサーダート大統領のイスラエル訪問を実現させるなど、中東和平にも貢献した。

一方、ルーマニアはソビエト連邦(ソ連)・東ヨーロッパ諸国とも友好関係を推進し、1976年にはブレジネフがルーマニアを訪問している。しかし、79年のソ連によるアフガニスタン侵攻には追随しないなど、一定の距離をたもった。

内政面では、チャウシェスクは共産党による厳格な一党支配を確立しようとし、党、政府、文化機関における反対派の存在をゆるさなかった。1970年、75年の洪水、77年の地震とあいついで自然災害にみまわれたが、重工業や貿易では成長を維持した。しかし、外貨はほぼ対外債務の返済にあてられたため、国民は食料、燃料、電力にも事欠く耐乏生活を強いられる。共産党政権に対する国民の反発は、88年に発表された8000の村の破壊をともなう強制移住計画でいっそう強まった。

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体制の転換

1989年12月、ティミショアラで反政府デモがおこなわれた。これに対するチャウシェスクの容赦ない弾圧をきっかけに国民の怒りが爆発し、全国規模の反政府運動がまきおこった。チャウシェスク夫妻は国民を支持した軍によって逮捕され、12月25日に処刑された。チャウシェスク政権崩壊後、イオン・イリエスクひきいる救国戦線評議会が暫定的に政権についた。

1990年5月の総選挙では救国戦線が大勝し、イリエスクが大統領にえらばれた(1992年に再選)。91年末には新憲法が施行されたが、改革の遅れとインフレ、失業、低賃金などによる生活状態の悪化に対して国民の不満が高まり、94年2月には200万もの労働者によるゼネストがおこなわれた。救国戦線は92年に社会民主主義党と民主党に分裂、これにくわえて、極右勢力の台頭や王政復古の動きなどで政局の混迷がつづいた。

こうした中で、1996年6月に実施された地方選挙では、与党の社会民主主義党が得票率20%でからくも勝利をおさめたが、11月の総選挙では野党連合の民主会議に敗北を喫した。この結果、89年以来政権についていた社会民主主義党は野党にまわり、民主会議など中道3党による連立政権が成立、民主会議のチョルベアが首相に就任した。同時に実施された大統領選挙でも、民主会議のコンスタンティネスクがイリエスク大統領をやぶって当選した。チョルベア政権は体制転換後初の非共産党系政権として経済改革の推進をめざしたが、97年後半から顕著となった改革の遅れへの批判が高まり、チョルベア首相は98年3月に引責辞任した。翌4月には最大与党である全国農民党のバシレ幹事長が新首相に指名された。

外交面では、1993年2月にEU(ヨーロッパ連合)との連合(いわゆる準加盟)協定に調印し、94年1月にはNATO(北大西洋条約機構)との「平和のためのパートナーシップ」に参加した。EUやNATOへの早期加盟をめざして、ルーマニアは積極的に近隣諸国との関係改善にのりだした。96年9月にはハンガリーとの基本条約に調印してハンガリー系住民の地位と国境の保全を保障し、両国間の歴史的な緊張関係にいちおうの終止符をうった。97年5月にはウクライナとの友好協力条約に仮調印し、両国の係争地となってきた北ブコビナと南ベッサラビアに関する領土要求を事実上放棄した。また、ドイツに対しても、第2次世界大戦中のドイツ系住民の強制収容や戦後の追放に関してはじめて公式に謝罪した。これはルーマニアのNATO加盟に対するドイツの支持をねらった行動だったが、功を奏さず、7月のNATO首脳会議の決定では結局、新規加盟の第一陣入りは実現しなかった。EU加盟に関しても第一陣からはもれ、ブルガリアなど4カ国とともに交渉準備国とされた。

1999年12月、コンスタンティネスク大統領は、経済再建の失敗を理由にバシレ首相を解任した。ムグル・イサレスク前中央銀行総裁が首相に指名され、上下院の承認をえた。イサレスク政権は、インフレの抑制、経済成長をマイナスからプラスに転化すること、失業率の改善、財政赤字のGDP3%以内への縮小を最重要課題として取り組みをはじめた。こうした状況のもと、2000年11月の総選挙と大統領選挙では、社会民主主義党が過半数にはとどかなかったものの第1党となり、大統領にはイリエスクが復帰した。この選挙でのきわだった特徴は、少数民族を敵視する民族主義政党の大ルーマニア党が第2党に進出したことだった。

社会民主主義党は、ハンガリー人民主同盟、国民自由党などの閣外協力を前提に単独政権を樹立、アドリアン・ナスタセ元外相が首相に就任した。同党は、2001年にルーマニア社民党と合併して、党名を社民党と変更した。

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NATO、EUへの加盟

ルーマニアでは、チャウシェスク政権が崩壊したあとも、旧共産党系勢力が官僚組織に強い影響力を維持したこともあって、政府高官による汚職が横行してきた。EU(ヨーロッパ連合)からも加盟交渉に影響するとの警告をうけていた。そのため、2003年3月、政府職員や国会議員が民間企業の役員に就任することを禁じ、マネー・ロンダリング規制ももりこんだ汚職防止法を制定した。また、省庁の削減、義務兵役の段階的廃止、大統領任期を4年から5年にするなど、EU加盟をめざしたさまざまな改革がおこなわれた。

懸案であったNATO(北大西洋条約機構)への加盟については、2002年11月に加盟をみとめられ、04年3月に正式加盟した。もうひとつのEUへの加盟については、東方への拡大の第一陣からはもれたが、04年12月までに加盟交渉が終了、07年の加盟が確実になった。

2004年11月に大統領選挙と総選挙がおこなわれた。大統領選挙は、12月の決選投票をへて、民主党党首トライアン・バセスク(前ブカレスト市長)がナスタセ首相をやぶって当選した。総選挙では、議席を大幅にへらしたものの社民党が第1党を維持したが、バセスク大統領の意向により、国民自由党、民主党、ハンガリー人民主同盟、ルーマニア人道党(2005年に「保守党」に改称)の連立政権が成立し、国民自由党のカリン・ポペスクタリチェアヌが首相に就任した。

ポペスクタリチェアヌ政権は2007年1月のEU加盟を最大の目標にすえ、経済改革の一環として、05年1月、所得税(18~40%)と法人税(25%)を一律16%にひきさげ、同年7月には通貨レイのデノミを実施した。EUがもとめる司法改革に関する政府の法案は、同7月、社民党の影響下にある憲法裁判所により違憲としてさしとめられた。ルーマニアのEU加盟準備状況についてヨーロッパ委員会は、汚職問題などに改善がなければ加盟の1年延期もありうるとしていたが、06年9月、予定どおりの加盟を支持、ルーマニアは、ブルガリアとともに、07年1月1日、EUへの加盟をはたした。ただし、汚職対策、司法改革、農業助成金の運用や食品安全などについてはさらなる改善がもとめられており、加盟後も3年間はヨーロッパ委員会の監視下におかれることになった。

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政争による混迷と新政権の発足

一方、イラク撤退や閣僚人事をめぐって対立が表面化したバセスク大統領とポペスクタリチェアヌ首相の亀裂はさらに拡大していった。ポペスクタリチェアヌは、2007年4月、最大野党社民党の協力をえて内閣改造を断行し、バセスクの出身母体である民主党を除外して国民自由党とハンガリー人民主同盟の2党による少数内閣を発足させた。司法制度改革や汚職対策にとりくんできたバセスク派の法相マコベイも閣外におわれた。同月、上下院は、職権乱用などを理由に社民党が提出した大統領の職務停止案を可決した。憲法裁判所がこれをみとめてバセスクの職務は停止され、上院議長のバカロイウ元首相が大統領代行に選出されたが、5月に実施された国民投票の結果、大統領罷免は圧倒的多数で否決され、バセスクは大統領に復職した。民主党はポペスクタリチェアヌ内閣の不信任案を議会に提出。また、これまで内閣に協力していた社民党も、閣僚ポストの配分をめぐって内閣不信任案を提出するなど、政局の混迷がつづいた。12月、民主党は、06年に結成された反ポペスクタリチェアヌ派の自由民主党と合併して、党名を民主自由党に変更した。

2008年11月の総選挙は、民主自由党が大躍進し、全体の得票率では保守党と同盟をくんだ社民党が1位を維持したものの、選挙区ごとの議席配分合計で民主自由党がうわまわって第1党となった。ポペスクタリチェアヌ首相のひきいる国民自由党は3位だった。12月、中道右派の民主自由党と中道左派の社民党が大連立に合意し、民主自由党のエミル・ボック党首を首相とする連立政権が発足した。

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日本との関係

日本とルーマニアの実質的な交流がはじまったのは、明治維新以降である。1877~78年のロシア・トルコ戦争に日本の陸軍将校が従軍し、ロシアの同盟国ルーマニアから勲章を授与されたというエピソードがのこっているが、当初の交流はごくかぎられたものであった。日露戦争での日本の勝利はルーマニア人に強い印象をあたえ、日本への関心を一挙に高めた。

第1次世界大戦期には、対ソ戦略との関連で主としてバルカンへの軍事的関心が強まるが、信夫淳平「東欧の夢」(1919年)にみられるように、バルカンの歴史や社会への関心も芽生える。

第1次世界大戦後に両国は正式に国交を樹立し、1930年(昭和5年)には通商協定がむすばれた。30年代はともにファシズムへの道をあゆみ、40年にはルーマニアが日独伊三国同盟に加盟したことから、第2次世界大戦中は日本と同盟関係にあった。しかし、44年にルーマニアがドイツに宣戦布告したため、日本とも形式的には交戦状態に入った。

戦後は体制がちがうこともあって国交回復は1959年とおくれたが、チャウシェスク政権の独自路線が高く評価され、旧東ヨーロッパ諸国の中ではとくに貿易が比較的活発であった。

1989年の体制転換後、日本はルーマニアの民主化・市場化を積極的に支援した。97年にコンスタンティネスク大統領が、2002年にイリエスク大統領が、07年にはポペスクタリチェアヌ首相が来日。02年は、1902年にオーストリア・ハンガリー二重帝国に駐在した両国公使が、ウィーンで両国の外交関係や通商条約の締結協議をすすめてから100周年にあたり、ルーマニアで日本文化紹介の記念行事がもよおされた。

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