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項目構成
1949年制定の憲法が89年に改正され、共産党(社会主義労働者党)の一党独裁に終止符がうたれた。国名も人民共和国から共和国に改称された。 元首である大統領は、議会により5年ごとに選出される。日常の政治をになう首相は、閣僚とともに大統領の推薦にもとづき、これも議会により選出される。議会は一院制で、4年ごとに改選される。定数386で、そのうち176名は小選挙区制、152名は比例代表制、58名が余剰票集計による全国候補者名簿制でえらばれる。選挙権は18歳以上の国民にあたえられている。 ブダペストにある最高裁判所のほか、県裁判所、地方裁判所、首都裁判所、労働裁判所がある。裁判官はすべて選挙でえらばれるが、最高裁判所長官は任期4年で議会により選出される。これ以外に、違憲立法審査権をもつ憲法裁判所が1990年に発足した。 1949年以来、社会主義労働者党が共産主義政権を維持してきたが、89年の改革以後は党員が激減し、同年10月、社会党に再編された。ほかに中道右派の青年民主連盟、民主フォーラム、自由民主同盟などがある。
社会主義時代は、5年ごとに改選される評議会が県や市町村の行政、地域経済、社会・文化活動を担当した。また、すべての地方機関が中央省庁に従属していた。しかし、現在は複数政党制にもとづく自治体にかわっている。 1972年から、すべての国民が社会保険に加入しており、その財源は、労働者の年間所得の約7%にあたる保険料によってまかなわれている。医療費は無料である。
2004年の兵力は、陸軍2万3950人、空軍7500人である。小艦隊がドナウ川の警備にあたっている。04年11月に徴兵制を廃止し志願制に移行した。駐留旧ソ連軍は1990~91年に撤退が完了した。94年には「平和のためのパートナーシップ」協定に調印、99年にはNATO(北大西洋条約機構)へ正式に加盟した。
現在のハンガリーにあたる地域は、古代ローマ時代にはパンノニアとよばれていた。帝国の辺境にあったパンノニアには、はやくからゲルマン人をはじめとする諸民族が進出した。 マジャール人(ハンガリー人)がこの地にすみついたのは、895年ごろとされる。族長アールパードにひきいられたマジャール人は、半世紀余りにわたってヨーロッパ中部一帯に君臨したが、955年、のちに初代神聖ローマ皇帝となるオットー1世にやぶれた。これをきっかけにキリスト教と西欧文化が伝来し、975年にはゲーザ公がキリスト教に改宗した。その子イシュトバーン1世はアールパード朝を創始し、1000年にローマ教皇から国王の称号をさずけられ、ハンガリー王国が成立した。
イシュトバーン1世の即位により、ハンガリーは新たな時代をむかえる。キリスト教が国教となり、王権が強化されたが、マジャール人以外には重税を課すなど従属を強いたため、イシュトバーンの死後は異教徒やゲルマン人の反乱になやまされた。対外的には、ラースロー1世がローマ教皇グレゴリウス7世と同盟をむすんだことでハンガリーの地位は高まり、クロアチア、ボスニア、トランシルバニアなどに領土を広げた。 しかし12世紀、ビザンティン帝国の皇帝マヌエル1世の扇動で生じた内紛をきっかけに王権が弱体化し、封建諸侯が乱立する。1205年に即位したアンドラーシュ2世は、貴族を優遇して中央集権体制を復活させようとしたが、成功しなかった。後継者のベーラ4世の治世には、内部分裂に乗じたモンゴル軍の侵入(1241)で国土が荒廃し、王国の崩壊に拍車がかかった。
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