Windows Live® の検索結果
Windows Live® の検索結果 ページ 6 / 8
項目構成
1301年、アンドラーシュ3世の死によりアールパード朝は断絶し、その後、08年からフランスのアンジュー家の支配がはじまる。アンジュー朝の時代には国内の秩序が回復され、セルビアの一部を併合した。42年に王位をついだラヨシュ1世はポーランド王もかね、ハンガリーはヨーロッパ有数の大国となった。ラヨシュ1世は産業の振興につとめたが、治世の末期には、バルカン半島を北上してきたオスマン帝国におびやかされるようになる。 その後、1387年にはアンジュー家にかわってルクセンブルク家のジギスムントが即位。彼はオスマン勢力への抵抗をこころみたが、96年には大敗を喫した。ハンガリーの王権争いに乗じたオスマン帝国の侵入は15世紀に入ってもつづいたが、フニャディの活躍で食いとめられた。 フニャディの息子マーチャーシュ1世(在位1458~90年)は外交手腕にすぐれ、1480年代にハプスブルク家からオーストリアの支配権をかちとり、モラビアやシロンスク(シュレジエン)も併合してハンガリーは中欧の最強国となった。しかし、マーチャーシュ1世の死後は封建諸侯が勢力をもりかえして国内はみだれ、農民の反乱が頻発した。
16世紀に入ると政治的混乱が深まる中で外国勢力の圧力が強まり、1526年にはスレイマン1世ひきいるオスマン帝国軍にモハーチの戦で大敗した。以後150年以上にわたり、ハンガリーは3分割される。西部と北部はハプスブルク家の支配下に入り、東部のトランシルバニアはオスマン帝国保護下の公国となり、中央部はオスマン帝国の占領下におかれた。東部のトランシルバニア公国は、その後ハプスブルク家とオスマン帝国の支配に対するハンガリー貴族の抵抗運動の拠点となり、宗教改革の際にはハプスブルク家を象徴するカトリックへの反感からプロテスタントが広まった。 三十年戦争(1618~48年)がおこると、トランシルバニア公ベトレンと、その後をついだラーコーツィ・ジェルジ1世はハプスブルク家に対する戦いをくりひろげ、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント3世に信教の自由をみとめさせた。しかし、その後プロテスタントに対する弾圧が強まり、テケリ公が反乱をおこしたが失敗し、ハンガリー王位の継承権がハプスブルク家にわたる。1699年のカルロビツ条約の結果、オスマン帝国の支配からは解放されたものの、今度は全土がハプスブルク家の支配下に入った。
1703年にはトランシルバニア公ラーコーツィ・フェレンツ2世の指導のもと、貴族と農民がスペイン継承戦争(1701~13年)を機にハプスブルク家からの独立戦争をくわだてた。反乱は失敗におわり、11年に神聖ローマ皇帝カール6世から大赦をうけ、一定の自治をみとめられたものの、ハンガリーは以後100年以上の間ハプスブルク家に従属することになる。
1789年のフランス革命の影響はハンガリーにもおよんだ。19世紀に入るとナショナリズムが高まり、1830年代にはセーチェニやデアークら自由主義的な貴族が改革運動をおこした。40年代にはコッシュートら下層貴族が、農民の封建的義務の廃止などを要求して急進的な改革運動をおこなう。文学においても、これに呼応する動きがみられた。
ハンガリー人急進派は1847年の議会選挙で大勝すると、バッチャーニを首班とする内閣の樹立を要求した。全ヨーロッパに革命の気運が高まる中、48年3月、オーストリアからの事実上の分離が可決される。ハンガリー議会は翌49年4月に独立を宣言し、対オーストリア独立戦争がはじまった。 これに対し、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ1世はロシアのニコライ1世とむすび、1849年8月にハンガリー軍を鎮圧、ハンガリーにオーストリアの中央集権的な支配が復活した。その後、オーストリアは59年の対イタリア戦争にはじまる対外戦争にあいついで敗北し、ハンガリー人に対して融和的な態度をしめすようになる。67年3月、オーストリアとハンガリーはアウスグライヒ(妥協)をむすび、ハプスブルク家の皇帝を共通の君主とするオーストリア・ハンガリー二重帝国を形成した。
|
© 2009 Microsoft
![]() ![]() |