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ハンガリー

ハンガリー Hungary
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5

第1次世界大戦とハンガリー共和国

第1次世界大戦での敗戦により、オーストリア・ハンガリー二重帝国は1918年に崩壊した。ハンガリーでは10月に民主主義革命がおこってカーロイの連合政権が成立し、共和制が宣言される。しかし、社会不安、政治不安はおさまらず、19年3月には共産主義者クンひきいるソビエト共和国が成立した。ところがこの政権も、性急な農業政策に反発した農民の反革命の動きと、ルーマニア、チェコなど周辺諸国による干渉のために、わずか数カ月でたおれた。

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摂政政府

1919年11月、反革命の立場にたつ旧オーストリア・ハンガリー軍将校ホルティの暫定政権が連合国の管理下に樹立された。王国復活が宣言されたものの実際には国王はおらず、ホルティが摂政として24年間にわたり独裁体制を保持した。

1920年、連合国との講和条約であるトリアノン条約によって、トランシルバニア、クロアチア、スロバキアなど、多数のハンガリー人居住地域を周辺諸国に割譲することになった。このため、21~31年のベトレン・イシュトバーン内閣時代には、領土回復をもとめるナショナリズムの嵐(あらし)がふきあれる。右翼急進派のゲンベシュが政権についた32年以降は、全体主義的な傾向が強まった。ナチス・ドイツに接近し、その侵略政策の一端をになうかたちで周辺諸国から領土を奪回。国際連盟から脱退し、39年1月には日独伊防共協定に加盟した。

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第2次世界大戦

第2次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)に際してハンガリーは中立を宣言したが、実質的には完全に枢軸国寄りの政策を展開した。1941年6月にはソ連、12月にはアメリカに宣戦布告する。しかし、43年8月の対ソ戦での敗北以後は連合国との講和にかたむいたため、44年3月ナチス・ドイツに占領され、反対派やユダヤ人はきびしい迫害をうけた。同年10月、ソ連軍によるハンガリー解放がはじまると、単独講和の道をさぐっていたホルティは追放された。

1945年1月、ソ連を後ろ盾とする臨時政府が連合国との休戦協定に調印した。大規模な土地改革や総選挙につづいて、翌46年1月には共和国が宣言される。この間、共産党は急激に勢力をのばしたが、単独で政権をとるにはいたらず、小農業者党などとの連立政権が成立した。

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社会主義時代

1947年以降、アメリカ、ソ連両陣営の冷戦がはじまり、ソ連の東欧支配が強まると、ハンガリーでも共産党による権力の掌握がすすんだ。他の政党は非合法化され、社会民主党は共産党への統合を強いられ、勤労者党が結成された。49年5月の総選挙では勤労者党が大勝し、8月には人民共和国が宣言され、勤労者党(共産党)の一党独裁にもとづくソ連型の社会主義体制が誕生する。

国内では基幹産業の国有化や農業の集団化がおこなわれ、対外的にはソ連など社会主義国との友好関係が強調された。反体制的とみなされた者は逮捕、投獄、処刑、収容所送りというかたちで粛清されている。

1953年にソ連のスターリンが死去すると、権力を独占していた共産党書記長ラーコシ・マーチャーシュが首相を解任され、穏健派のナジ・イムレが後任にえらばれるなど、内政が一部緩和された。しかしソ連・東欧諸国間の関係にはほとんど変化がみられず、55年にはワルシャワ条約機構に加盟した。

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ハンガリー事件

スターリン死後の変化は一時的なもので、1955年4月にはナジが突如首相を解任され、ラーコシ派が党第1書記と首相の座に復帰した。56年2月のフルシチョフソ連共産党書記長によるスターリン批判は、このような体制に対するハンガリー民衆の不満を爆発させた。学生と労働者は、ポズナニ暴動にはじまるポーランドの民主化運動にも触発されてたちあがり、ナジの復帰をかちとる。

ナジは急進化した民衆に後押しされるかたちで、一党制の廃止、自由選挙の実施、駐留ソ連軍の撤退、ワルシャワ条約機構からの脱退などを宣言するにいたった。しかし、この動乱は結局、2度にわたるソ連の軍事介入で鎮圧され、ナジは反逆罪で処刑された。ハンガリー事件

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