Windows Live® の検索結果

  • ハンガリー大使館

    ハンガリー紹介、両国関係、奨学金留学生募集、在日機関リスト、催し紹介。

  • 外務省: ハンガリー共和国

    日・ハンガリー外相会談(概要)(平成20年3月17日) 日本・ハンガリー共同プレスステートメント(平成20年3月17日) 運転免許試験の一部又は全部の相互免除に関する日本国政府とハンガリー共和国政府との間の交換公文の署名について(平成20年3月17日) ...

  • ハンガリー - Wikipedia

    国の標語 : なし 国歌  : 賛称(神よマジャル人を祝福し賜え)

すべての検索結果 :
Windows Live® の検索結果
ページ 8 / 8

ハンガリー

ハンガリー Hungary
百科事典項目
マルチメディア
キバシオオライチョウキバシオオライチョウ
項目構成
8 B

カーダール体制

ハンガリー事件後はカーダールの指導のもと、勤労者党(のちに社会主義労働者党と改称)支配の立て直しがはかられた。当初はきびしい引き締めがおこなわれたが、1960年代後半から融和的な政策がとられるようになった。67年の総選挙では、非共産党の候補者が制限付きで立候補をみとめられた。68年からは、計画経済に市場原理をとりいれるという「新経済メカニズム」を導入している。

1970年代には、西ドイツとの国交正常化(1973)をはじめ西側諸国との関係が改善され、貿易や文化交流が拡大した。経済面では、80年から市場原理の導入など、思い切った改革が開始された。インフレの高進などのマイナス効果があらわれたため、政府は経済改革を中断しようとしたが、国民は強く反発し、88年には30年余り指導者の地位にあったカーダールが退陣においこまれる。後任のグロースは補助金カットなどきびしい経済政策の一方で、民間部門の拡大、検閲の緩和、スト権の承認などの自由化を実施したことから、社会主義労働者党以外の勢力が形成されはじめた。

9

民主化の進行

1989年に政府は、ソ連で処刑されたナジ首相の国葬の実施というかたちでハンガリー事件の見直しをおこない、憲法を改正して複数政党制を導入した。また、国名を「人民共和国」から「共和国」にあらためた。90年におこなわれた戦後初の自由選挙では、社会主義労働者党を改称した社会党が敗北し、民主フォーラムを中心とする中道右派の連立政権が成立する。しかし94年の総選挙では、民主フォーラムの分裂もあり、社会党がふたたび議席の過半数を獲得し、党首ホルンが首相に就任した。社会党は単独政権ではなく第2党の自由民主連合との連立をえらび、政権の安定をはかった。95年6月の大統領選挙では、両党の推薦によりゲンツが再選された。

外交では、1990年に東欧諸国ではじめて欧州会議への加盟をはたし、94年にはNATOとの「平和のためのパートナーシップ」協定に調印し、EU(ヨーロッパ連合)への加盟を正式に申請した。政府は国営企業の大規模な民営化をすすめ、89年から拡大の一途をたどっていた財政赤字の削減にとりくんだ。ハンガリー経済は94年から上向きに転じ、96年3月には東欧ではチェコについで2番目にOECD(経済協力開発機構)への正式加盟をみとめられた。東欧では外国からの最大の投資先となり、2位のポーランド以下を大きくひきはなしている。好調な輸出にもささえられて97年には4%の経済成長を達成した。

10

NATO、EUへの加盟

周辺諸国とは1991~92年に一連の協力協定をむすんだが、スロバキア、ルーマニアとの関係は各国内のハンガリー系少数民族の扱いをめぐって緊張した。ホルン首相はハンガリー人への正当な処遇の保障と引き換えに、領土要求の放棄を表明した。スロバキアとは、ドナウ川のダム建設問題をめぐる対立もかかえている。こうした中で、ハンガリーは95年3月にスロバキアと国境線の画定や少数民族の権利擁護をもりこんだ善隣友好条約に調印し、EU加盟の早期実現をにらんで係争問題の解決への意欲をしめした。またユダヤ人問題に関しては、94年7月、第2次世界大戦中のホロコーストへの関与について公式に謝罪した。

1997年にはNATO、EUへの加盟がともに具体化にむけて前進した。NATO加盟については、同年7月のNATO首脳会議でハンガリー、チェコ、ポーランドの新規加盟が承認され、12月に議定書が調印された。加盟16カ国の批准をへて、99年3月に3国の正式加盟が実現した。EU加盟についても、97年12月のEU首脳会議で先発の交渉対象国(6カ国)にふくめられることがきまり、98年3月より政府間交渉が開始された。

国内の社会問題として、すべての国民の自由と人権が憲法で保障されているにもかかわらず、少数民族への差別や迫害がおきていることがあげられる。1993年にはロム(ジプシー)が正式に少数民族としてみとめられたが、ユダヤ人は依然としてみとめられていない。

1998年5月におこなわれた総選挙で、青年民主連盟が第1党となり、社会党は第2党に転落した。7月、青年民主連盟議長ビクトル・オルバンを首相として、青年民主連盟・独立小地主党・民主フォーラムの中道右派連立政権が発足した。オルバン政権は、EU加盟政策では前政権をひきつぐとともに、スロバキア、ルーマニアなど近隣諸国との関係改善をおしすすめた。

しかし、順調な経済成長を背景にEU加盟が現実味をおびてくると、オルバン政権はむしろ保守化・右傾化に転じた。周辺諸国にすむハンガリー系住民に対する優遇策をもりこんだ法律を制定したり、第2次世界大戦中のチェコスロバキアによるドイツ系住民とハンガリー系住民の国外追放を批判するなど、民族主義的色彩のこい施策を次々とうちだしたため、周辺諸国の強い反発をよびおこした。

2002年4月におこなわれた総選挙では、社会党・自由民主同盟の中道左派勢力が与党の民族主義的政策に対する批判票をあつめて勝利し、4年ぶりに政権に復帰した。首相には、前回の社会党政権の蔵相をつとめた経済専門家のペーテル・メジェシーが就任した。

メジェシー政権は、前政権が周辺諸国にすむハンガリー系住民に対して特別待遇法を制定したことで悪化したスロバキアとルーマニアとの関係修復にうごき、2003年9月にルーマニアと、12月にはスロバキアと、特別待遇法を改善する協定に調印した。これにより、各国は自国内の少数民族に配慮することを確認した。

EU加盟については、2003年4月に、加盟の是非を問う国民投票を実施し、賛成84%で承認された。ただし、投票率は45%で、加盟に疑問をもつ国民がかなりいることをしめした。EUへの正式な加盟は、04年5月になされた。

11

中道左派がはじめて政権を継続

2004年8月、内閣改造をめぐる与党内の対立でメジェシー首相が辞任、後任にはジュルチャーニ青年・スポーツ相がついた。05年6月、任期満了のマードル大統領の後任に、最大野党である青年民主連盟がおすショーヨム元最高裁長官を議会が選出した。

2006年4月におこなわれた総選挙では、社会党・自由民主同盟の中道左派勢力が過半数の議席を獲得した。ハンガリーでは、1989年の民主化後、4年の総選挙ごとに左派と右派の政権が交代してきたが、はじめて中道左派政権が継続することになった。イギリスのブレア首相を敬愛するジュルチャーニ首相が、ハンガリー流の「第三の道」を提唱、外資導入など積極的な自由主義的政策をとりいれたことが支持拡大につながった。

12

日本との関係

日本との国交はすでにオーストリア・ハンガリー二重帝国時代の1869年(明治2)、修好通商条約の締結により開始されている。第1次世界大戦後に独立国となってからは、1924年(大正13)に洪日協会が設立され、民間の交流もはじまった。ハンガリーではこの時期、ユーラシア大陸のすべてのウラル・アルタイ語系民族を単一のツラン民族とみなすツラン主義が流行しており、その視点からも日本への関心が高まった。

第2次世界大戦後は、両国の体制の違いもあって、国交の回復は1959年(昭和34)とおくれた。また、貿易協定や文化協定がむすばれたのは60~70年代になってからである。しかし、ハンガリーにはアジア起源の民族としての日本に対する親近感が常にみられる。日本側では、東欧でもっとも経済改革がすすんだ国として関心が高まっており、投資や企業の進出もふえている。日本との貿易量は東欧では最大であり、2000年(平成12)にはEU加盟国のスペインやポルトガルをもうわまわった。

1997年6月には短期の滞在に対するビザ免除の取り決めがかわされた。2000年4月には、ゲンツ大統領がハンガリーからの初の国賓として日本を訪問、02年7月には、天皇皇后両陛下がハンガリーを公式訪問した。文化面の交流も官民両方のレベルで活発におこなわれており、1991年には東欧で唯一の国際交流基金事務所がブダペストに開設された。

前のページ
| | | | | | |
次のページ
項目内で検索
項目全体を印刷
項目の URL をメールで送る




© 2008 Microsoft