Windows Live® の検索結果
Windows Live® の検索結果 ページ 3 / 4
項目構成
中王国時代は装飾美術、とくに彩色された石で象嵌された貴金属による宝飾品の傑作を生みだしている。酸化スズをうわ薬にした陶器「ファイアンス美術」は、護符や小像の生産に利用されて、重要度をました。水生植物の彩色図柄で装飾した青い光沢のあるカバの小像がよく知られている。
第13王朝時代は150年間に50~60人もの弱小支配者が次々にあらわれた時代であった。第2中間期(第14~17王朝)は再度エジプトの分割支配の時代となった。西アジアから侵入したヒクソスはまもなくエジプトの支配者となった。この衝撃は長く尾をひいた。ヒクソスはエジプトに新しい技術をもたらして、エジプト人に地中海世界全体へと視野をひろげるきっかけをあたえた。しかし、テーベ王朝によってエジプトは再統一され、ヒクソスは追放された。第18王朝からはじまる新王国時代は強大な権力、富、交易と征服によって、国外に影響をおよぼすことになった。
第18~20王朝の王は宗教建築に力をいれた。ふたたびテーベを首都にし、地方神アメンを尊崇してエジプトの最高神にすえた。アメン崇拝の中心地カルナックの神殿群は、新王国時代の支配者によって追加拡張され、歴史上屈指の感動的な宗教建造物となっている。巨大な塔門のたつ玄関、柱廊のある中庭、オベリスクや彫像で装飾された多柱室は、王や国家の権力をほうふつとさせる圧倒的な景観をつくりだしている。 テーベの共同墓地に近い西側の堤には、諸王の葬祭用の神殿がたてられた。新王国時代を通じて、王の遺体は、乾燥した王家の谷の岩肌にうがった墓に埋葬された。葬祭神殿は、この谷の外側のややはなれた所にたてられた。とりわけ有名なのは、ディール・アルバフリーにあるハトシェプストの葬祭神殿(前1478頃)で、王室付建築家センムト(前1482頃没)がたてた。ナイル河の断崖を背景にしてたつこの葬祭神殿は、第11王朝のメンチュヘテプ2世の神殿に隣接しており、おそらくはこの神殿の設計に触発されたものと思われる。広大な階段テラス状の配置をもつこの建物には、神々をまつる多数の祭壇があり、女王ハトシェプストの偉業をあらわす浮彫がほどこされている。他の諸王はこの先例にしたがおうとはしなかった。彼らは、断崖からはなれた耕作地のはずれに神殿をたてた。 新王国時代の偉大な王である第19王朝のラメセス2世は、南方のヌビアに大岩窟神殿アブシンベルをつくった。岩山の側面にほりこまれたこの神殿の正面には、王の4体の大座像がある。1964~68年の新アスワン・ハイ・ダム建造の折に、水没をのがれるため、この神殿全体は岩山から切りとられて、高い位置にうつされた。
アメンヘテプ3世の息子イクナートンの時代の美術は、この王が推進した宗教改革を反映している。イクナートンは太陽神アテンを崇拝し、美術も新しい方向をうちだすべきだと考えた。治世初期には風刺に近い写実主義がもちいられたが、これはやがて「イクナートンの妃ネフェルティティの着色された石灰岩頭部像」(前1365頃)にみられる繊細な美しさと深い感性をもった様式に発展した。
新王国時代では、浮彫はおもに宗教建造物の装飾に、絵画は一般人の墓地の装飾にもちいられた。テーベの共同墓地の絵画は、当時の生活をいきいきとうつしだし、美術的伝統のゆるやかな変化を詳細につたえている。 絵画という媒体は彫刻よりも表現範囲がひろく、美術家はナイル河畔の生活情景を色彩豊かにえがくことができた。異国からエジプトにもたらされる貢物(みつぎもの)をしらべる役人の姿や、重厚な彫刻から繊細な宝石にいたる、王家の工房でつくられた工芸品などが綿密にえがかれている。葬儀の模様は、墓地への行列から最後の祈りの場面までくわしくえがきだしている。古王国時代にすでに知られていたテーベの墓碑壁画は、死者たちをパピルスの生える沼地で狩猟や魚釣りなど永遠の娯楽に興じている姿にえがくのが通例であった。
|
© 2009 Microsoft
![]() ![]() |