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  • カイロ (エジプト) - Wikipedia

    [編集] 概要 ナイル川 河畔の交通の要衝として 中世 に建設されてより現在にいたるまで長い時代を通じて イスラム世界 における学術、文化、経済の中心都市でありつづけた 中東 屈指の大都市である。現在においてもカイロ首都圏(ナイル河西岸のギーザ市 ...

  • エジプト大使館・観光局

    カイロはエジプト・アラブ共和国の首都でアフリカ最大の都市です。人口の約26%が生活するカイロは、地中海の香りと東洋の魅力をミックスした都会的な都市で、ファラオ王朝、ギリシャ・ローマ時代、キリスト教及びイスラム教の歴史的建造物が共存する町 ...

  • カイロ工業会ホームページ

    日本カイロ工業会では、消費者の皆様にカイロを安全で楽しくご利用いただくために、夢のカイロのアイデアの募集をしています。 ... ようこそ「日本カイロ工業会ホームページ」へ。 あなたは 人目のご訪問者です。

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カイロ

カイロ Cairo
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

エジプトの首都で、カイロ県の県庁所在地。ナイル川にのぞむ港町で、ナイルデルタの要にある。アフリカと中東で最大の都市で、1000年にわたるイスラム文化の中心地である。人口は678万9000人(1998年推計)。

カイロ一帯はエジプト最大の工業地域で、おもな産業は織物・食品・建設資材・自動車・飛行機・印刷物・化学肥料。カイロ近郊のヘルワンには、近代的な大製鉄所がある。観光業も盛んで、1987年には地下鉄が開通した。

カイロはマス・メディアの中心地である。カイロで発行されている半官的な新聞「アル・アハラム(ピラミッドの意)」は、ラジオ・カイロの国際放送「アラブの声」とともにイスラム世界に大きな影響力をもっている。世界最古の大学のひとつでイスラムの最高学府であるアズハル大学(972年創立)があり、イスラム神学シャリーア研究のメッカとして知られる。ギーザ近くにあるカイロ大学(1908)とアイン・シャムス大学(1950)には、それぞれ毎年数万人の学生が入学している。外国系の大学にカイロ・アメリカ大学(1919)がある。

II

都市景観

カイロの市街は、ナイル川の東岸にひろがっている。タハリール(解放)広場が新市街の中心で、近代的な建物の多いビジネス・官庁地区である。ナイル川沿いのコルニッヒドライブ地区には、高級ホテルや大使館が林立している。ビジネス・官庁地区の東には中世的な旧市街がひろがり、イスラム教のモスクや塔といりまじって住宅や小規模工場がたっている。ビジネス・官庁地区の北にあるブーラーク地区や、南のオールドカイロには、1km²当たりの人口密度が10万人という貧民街もある。南と東の郊外の死者の町とよばれる墓地の多い地区には、25万人の貧民が古代の地下室や霊廟(れいびょう)を家としてすんでいる。スーク(市場)や、せまい路地は中世時代の名残である。観光客にもっとも有名なのはハーンアルハリーリースークで、みやげ物店が軒をつらね、伝統的な金・銀・木工細工を売っている。

ナイル川にある2つの島もカイロに属する。ザマリク(ゲジーラ)島には、豪華な庭園、高級住宅街があり、カイロタワーが高くそびえている。ラウダ(ローダ)島には、市の最高医療機関のひとつ、カイロ大学病院がある。

古代エジプト文明やイスラムの遺産に関心のある人にとって、カイロは魅力的な場所である。ナイル川西岸のギーザには、スフィンクスをはじめ、さまざまなピラミッドがたちならんでいる。カイロ博物館には、古代ツタンカーメン王の墓からでてきたうつくしい宝物が展示されており、イスラム美術館にはイスラム時代の芸術品がかざられている。おもに旧市街には、ミナレット(高塔)、煉瓦(れんが)のドーム、霊廟やモスクがある。とくに有名なのは、マムルーク朝の墓や、イブン・トゥールーン、アズハル、スルタン・ハサン、ムハンマド・アリーのモスクである。

III

歴史

古代エジプトの首都メンフィスは現在のカイロの南にあり、現在の新市街がある場所に、ローマ人がバビロンという名の町をたてた。641年に西南アジアからきたアラブ人がこのバビロンに軍営都市フスタートをつくった。969年に、イスラム国家のひとつであるファーティマ朝がエジプトを占領し、フスタートの北東に要塞(ようさい)都市をたてた。その都市はカーヒラ(勝利者)とよばれ、のちにイギリスによってカイロとあらためられた。

12世紀に十字軍がカイロを襲撃したが、シリアからきたサラーフ・アッディーンがひきいるイスラム軍がそれを撃退した。サラーフ・アッディーンは、その後アイユーブ朝を樹立し、カイロに巨大な城砦をきずいた。13世紀に町はマムルーク朝の首都となり、14世紀には人口50万人というヨーロッパと中東で最大の都市になるが、14世紀半ばに黒死病の流行によって人口が激減し、その後、徐々に衰退していった。

1517年にオスマン帝国に占領されたが、1798年にナポレオン1世に占領されて3年間フランス領になったのち、1801年にオスマン帝国が奪還している。

1863~79年のイスマーイール・パシャの時代にカイロの都市開発がおこなわれている。このとき、旧市街の西にイスマイリアというヨーロッパ調の地区もできた。20世紀の初めに、当時エジプトを支配していたイギリスが同地区を再開発し、西側のナイル川のほうへ発展させていく。こうしてザマリク島とナイル川西岸の地域が整備されたのである。

第1次世界大戦の間にカイロの外国人は徐々にへり、農村部からでてきたエジプト人労働者のために、新しい居住区が次々とたてられた。1927年カイロの人口は100万人だったが、47年にはその倍になり、その後もふえつづけていった。とくに60~70年代には急激にふえている。81年にエジプトのサーダート大統領が、軍事パレードの最中にカイロで暗殺されている。急激な人口増加によって、カイロの都市の諸施設が大きな影響をうけている。

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