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古代メソポタミアの中心都市のひとつ。バビロニア語では「神の門」を意味するバビリムまたはバビリという。イラクのバグダッドの南方90kmのユーフラテス河畔に位置し、今日ひろい範囲に遺跡がのこっている。前2千年紀~前1千年紀にバビロニア王国の首都となり、ペルシャ湾と地中海をむすぶ陸上の隊商ルートの中継地として大いに繁栄した。
先史時代からこの土地には人がすんでいたが、記録に最初にあらわれるのは前3千年紀の終わりからである。前2200年ごろには神殿のある場所として知られており、前21世紀の間は、近隣の都市国家ウルに従属していた。しかしアモリ人のスム・アブムが王朝をひらき、都市国家として独立(前1894頃)、第6代のハンムラピによって最盛期をむかえる。しかし、前1595年にヒッタイトの略奪にあい、その後カッシートの王朝に支配された(前1550頃~前1155)。カッシート人のもとでもその首都としてのバビロンの役割はかわらず、前12世紀ごろには、最高神の地位にあげられた主神マルドゥクをまつる宗教上の中心地にもなった。 カッシート王朝が東のエラム人の攻撃をうけ崩壊したあと、いくつかの短命の王朝がつづいた。その後、前8世紀末からはアッシリア帝国の一部となり、アッシリア王センナヘリブがバビロンを破壊する事態もおきたが、前7世紀末、ナボポラッサルがアッシリア人をおいだした。
ナボポラッサルは新バビロニア王朝をひらき、その子ネブカドネザル2世は領土を西アジアまで拡大した。王国の首都としてバビロンは一新され、新しい神殿や宮殿建築、巨大な城壁や門、そして石をしきつめた行列道路などがつくられた。このころのバビロンは1000haの広さをもつ巨大な都市であった。 しかし、新バビロニア王国の繁栄は長くつづかず、新しくおこったペルシャのキュロス大王が前539年にバビロンを攻略、バビロニアをペルシャに併合した。ペルシャの支配のもとでバビロンはしばらく皇太子の居住地となっていたが、前482年ここで反乱がおきると、クセルクセス大王はバビロンの神殿やジッグラト(聖塔)を完全に破壊し、守護神マルドゥクの像をとかした。 前330年にバビロンを征服したマケドニアのアレクサンドロス大王は、街を再建し、広大な帝国の首都にするつもりだったが、その計画を実行するまえに世をさった。その後、前312年からしばらくの間バビロンはアレクサンドロスの後継者セレウコスのおこしたセレウコス朝の首都だった。しかし、前3世紀初めにティグリス河畔につくられたセレウキアが首都になり、住民の大半が新首都にうつされると、重要性をなくしたバビロンは後7世紀にイスラム教徒がやってくる以前にほとんど消失した。
現在バビロンの遺跡でもっともよくわかっているのは、第1次世界大戦直前にドイツのコルデワイらが発掘した新バビロニア時代の層である。ユーフラテス川は当時、この都市を大小ふたつの部分にわけ、東岸には宮殿や神殿の多い「古い街」があり、西岸には「新しい街」がつくられていた。市の中心付近には主神マルドゥクの神殿エサギラがあり、そのわずか北にエテメナンキというジッグラト(聖塔)があった。このジッグラトは伝説のバベルの塔のモデルともいわれる。 「古い街」の北西隅では宮殿建築や要塞(ようさい)の集合体のようなものが発見された。ドイツの発掘隊はその中のひとつの遺跡を、世界の七不思議のひとつであり、ネブカドネザル2世がメディア人の妻のためにたてたという空中庭園の基礎部分とみなしている。その近くにはイシュタル門があり、ライオンやドラゴンの姿が明るく色づけされたレンガでえがかれている。宗教的、政治的な指導者たちが新年祭の儀式であるく行列道路はイシュタル門をとおり、さらに内部の巨大な城壁につくられた9つの門をとおってバビロニア人の主要な居住区につづいていた。
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