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項目構成
住民の大部分はマレー系の言語をもちいるマレー人である。スンダ語、ジャワ語、マドゥラ語を話すグループが人口の大半を占める。スンダ族は島の西部にすみ、ジャワ族は中部、マドゥラ族は東部にすむ。圧倒的多数の住民はイスラム教である。
ジャワ島では、原始的な人類の化石が大量にみつかっており、中国とならんでアジア地域における人類進化研究のメッカとなっている。この地域に百数十万年前からいた原始的な人類はジャワ原人とよばれ、中国北部にいた北京原人と同様に、ホモ・エレクトゥス種に分類されている。ホモ・エレクトゥスは、アフリカからユーラシアの中~低緯度地域に分布していた種であるが、この種が現在のジャワ島へわたってこられたのは、氷河期に海水面が大きく低下し、ジャワ島がアジア大陸と陸続きになっていたからである。ジャワ原人は、その後、長い期間この地域で進化しながらくらしていたが、アフリカで進化したホモ・サピエンス(わたしたち現代人の種:→ 新人)の集団が、数万年前にアジアを経由して移住してきたことにより、事実上、絶滅したと考えられている。
ジャワ文化の社会的・経済的基礎をかたちづくるうえで重要だったのは、灌漑(かんがい)水田での稲作だった。紀元前後にはすでに稲作がおこなわれていたが、労働と社会は小さな村(デサ)にねざし、地域の首長により統轄されていた。ジャワの社会構造では女性がとくに重要な地位を占め、それは母系制の痕跡(こんせき)をのこしている。発達した技術として、牛とスイギュウの家畜化、アウトリガー・カヌーの使用などがあげられる。アウトリガー・カヌーは、西はマダガスカル島、東はイースター島におよぶ初期の海上交通を示唆するものである。ワヤン(影絵人形劇)、ガムラン(吹奏楽器と打楽器の合奏)、バティックなど、現代につたわる伝統文化のいくつかはこの時代に起源をもつと思われる(→ インドネシア舞踊:インドネシア音楽)。
紀元後数世紀の間、インドからの文化的影響がめだつようになった。香辛料貿易にたずさわったインド商人が、ヒンドゥー教的あるいは仏教的な文物をもたらした。インドの文学、法典、サンスクリット、インド文字(とくに南インドのもの)などである。これらはまずジャワの貴族の間に広がり、のちにほかの人々にも広がっていった。ヒンドゥー教・仏教・ジャワ文化の混交は、中部にある9世紀の仏教遺跡ボロブドゥールにもっともよくあらわれている。 ボロブドゥールは、8世紀に中部および西部の一部を支配するようになったシャイレンドラ朝によって建設された。9世紀、スマトラ島のスリウィジャヤの支配者は、二大権力間の婚姻関係を通じて、シャイレンドラの王子となった。11世紀には、ヒンドゥー・ジャワの歴史における伝説的英雄アイルランガが登場する。アイルランガの死後、王国は分裂し、西側のクディリ朝が優勢となり1222年まで支配した。その後をついだのは、93年までつづいたシンガサリ王国である。最後のヒンドゥー・ジャワ王国は、14世紀に隆盛したマジャパイトで、その宰相ガジャ・マダは、インドネシア史における傑出した人物のひとりである。
ジャワの混合文化は、15~16世紀にイスラム教の広がりにより、さらに豊かなものとなった。沿岸の住民と貴族たちが、最初に新しい文化の影響をうけた。そして、16世紀にはイスラム教国のマタラム王国が全島の支配を確立した。 ポルトガル商人は16世紀にジャワ島にやってきたが、その世紀の終わりには、オランダ商人が商業上のポルトガルの影響を排除した。オランダは1619年にバタビア(現ジャカルタ)を建設、その後急速に影響力を広げ、1755年には島の大部分を支配した。ナポレオン戦争の間、当時オランダを占領していたフランスがジャワの支配権をにぎったが、1811年、イギリスがジャワの支配権をうばい、さらに16年、オランダが支配権をとりもどした。25~30年、ジャワの王子を指導者とする反乱がおこったが、オランダ政府により鎮圧された。その後、第2次世界大戦中の1942年3月に日本に占領されるまで、オランダの支配下にあった。
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