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  • パキスタン - Wikipedia

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パキスタン

パキスタン Pakistan
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項目構成
VII

歴史

パキスタン地域の前史については、インダス文明およびインドの歴史を参照のこと。

1756~1947年の約200年間、インド亜大陸はイギリスの支配下におかれた。イギリスは、1857年のセポイの反乱を契機にイギリス領インドの政治改革にとりくみ、政党の結成をみとめた。85年にヒンドゥー教徒を中心にインド国民会議派が、1906年には少数派のイスラム教徒によってムスリム連盟が結成される。イギリスが09年にインド統治法の改正をおこなった際、イスラム教徒はイギリスに分離選挙を要求、改正法ではイスラム教徒に対する分離選挙区をもうけることがさだめられた。これによりイスラム教徒は47年の独立まで、イギリス領インドの国民議会や州議会に代表をおくることが保障された。

ムスリム連盟は1940年のラホール年次大会でイギリス領インドを分割し、別にイスラム教徒の国家(パキスタン)を建設するとの決議をおこなった。46年のイギリス領インドの独立をめぐる会談の中で、分離独立を主張するムスリム連盟と、統一インドとしての独立を主張するインド国民会議派とがきびしく対立した。このためイギリス政府はイギリス領インドの分割を決定、47年8月14日、主権をインドとパキスタンに委譲する。こうしてパキスタンは、インドをはさんで1600kmもはなれた2つの地域、西パキスタンと東パキスタンからなるイギリス自治領として独立することになった。

1

分離独立にともなう諸問題

1947年8月のイギリス領インドの分離独立は多くの難民を生みだした。約350万人のヒンドゥー教徒やシク教徒がパキスタンからインドにのがれ、逆に500万人のイスラム教徒がインドからパキスタンに流入したのである。その過程でヒンドゥー教徒とイスラム教徒が各地で衝突し、おびただしい犠牲者を出したとつたえられている。このため、インドとパキスタンの関係ははじめから険悪なものとなった。さらに両国は、藩王国の帰属をめぐって、対立を深めていった。各藩王国はインドかパキスタンへの帰属を藩王が決定することになったが、カシミールではヒンドゥー教徒の藩王がインドへの帰属をきめた。しかし、パキスタンはカシミールの住民の85%がイスラム教徒であることを理由にインドへの帰属に反対し、47年秋、両国は最初の戦火をまじえることになる。

この第1次インド・パキスタン戦争は国際連合の仲介で停戦、国連監視のもとで住民投票をおこないカシミールの帰属をきめるという国連決議が採択された。しかし、インドはカシミールの約3分の2を占拠したまま、住民投票の実施を拒否した。カシミールの帰属をめぐる対立は現在もつづき、両国の間によこたわる不信と反目の要因となっている。

2

共和制以前

独立後の最初の政府はムハンマド・アリ・ジンナーが総督、リヤーカト・アリ・ハーンが首相となり、首都はカラチにおかれた。政府はただちに行政制度の確立、軍の強化、難民の定住、地方政治家の懐柔、経済・社会改革など多くの事業に着手した。しかし官僚をはじめ人材は少なく、政治体制をかためるにはいたらなかった。

独立を指導したジンナーが1948年に死去、アリ・ハーンも51年に暗殺され、卓越した指導者もなく、政治はいっそう混乱していく。そうした中でムスリム連盟は国民の支持をうしない、55年の国民議会選挙では野党に転落した。国民議会は55年10月に西パキスタンの4州をひとつの行政単位に統合する法令を公布、さらに56年2月には新憲法を公布した。

これによりパキスタンはイスラム共和国となり、当時総督だったイスカンダル・ミルザ将軍が暫定大統領に選出される。その後も政治の混乱はつづき、1958年10月、全軍最高司令官兼戒厳司令官のムハンマド・アユーブ・ハーン将軍が無血クーデタをおこしミルザ大統領を解任、みずから大統領に就任した。

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アユーブ・ハーン時代

アユーブ・ハーン大統領は10年以上にわたってパキスタンを統治し、いくつかの改革をおこなったが、パキスタン社会がかかえる根本的な問題は解決できなかった。しかし、開発のおくれていた東パキスタンについては、東西パキスタンの経済格差をなくすことはできなかったものの、開発資金の配分を大幅に増加して開発を促進させた。

アユーブ・ハーン大統領がとりくんだ変革の中でもっとも悪影響をのこしたものは、おそらく「基本的民主主義制」の導入であろう。この制度は、アユーブ・ハーンが制定した1962年憲法にうたわれている。その内容は、全国を8万区の行政区にわけ、各行政区では住民が1名の代議員を選出、この代議員が大統領、国会議員、州議会議員の選挙人団を構成するという、間接選挙制を基本としたものである。

アユーブ・ハーンはアメリカと良好な関係を維持し、それゆえ多額な経済・軍事援助をひきだすことができた。しかし、対米関係は1965年のカシミールをめぐる第2次インド・パキスタン戦争で大きくゆらぐことになった。戦争がはじまるやアメリカは両国への軍事・経済援助を停止したため、パキスタンは唯一の武器の供給源をたたれたのである。第2次インド・パキスタン戦争は2週間後にソビエト連邦(ソ連)の仲介で停戦した。66年1月、ソ連首相の招きでアユーブ・ハーン大統領とインドのラス・バハドウル・シャストリ首相がタシケントを訪問し、両国は開戦前の状態にもどることをとりきめたタシケント協定に調印した。

タシケント協定とカシミール問題についての政府の対応に、パキスタン国民は不満と怒りをつのらせた。ズルフィカル・アリ・ブットー外相はアユーブ・ハーン大統領の独裁とカシミールをうしなった外交上の失政をはげしく攻撃した。国民の反政府運動が高まる中、1969年3月、アユーブ・ハーンは辞任を表明、その権限を陸軍総司令官ムハンマド・ヤヒヤー・ハーン将軍に委譲する。ヤヒヤー・ハーン将軍は大統領に就任すると、ただちに戒厳令を布告した。

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内戦

ヤヒヤー・ハーン大統領は就任後、国民の支持をえるため300人の高級官僚を解任した。また、パキスタンのGNP(国民総生産)の半分を支配するといわれた30財閥を特定し、これら財閥の力をおさえる目的で、1970年に独占禁止法を制定して貿易規制をおこない、同時に民政移管を公約した。しかし、その後公約を実現することなくヤヒヤー・ハーン政権は崩壊していく。

当時、パキスタンの統一をおびやかす要求が東パキスタンから出されていた。それはアワミ連盟の指導者ムジブル・ラーマンが要求したもので、パキスタンを連邦制にかえるよう主張していた。連邦政府の権限は国防と外交のみで、通貨さえ、相互の交換性をもたせながらも、東西パキスタンで別の通貨をもつという、事実上東パキスタンの独立をもとめるものであった。ムジブル・ラーマンの主張は東パキスタンの人々の幅広い支持をうけ、1970年12月の総選挙でアワミ連盟は東パキスタンで地すべり的勝利をはたし、国民議会の過半数を制する。西パキスタンではブットーひきいるパキスタン人民党(PPP)が最大の議席を獲得した。

ムジブル・ラーマンの分離主義的傾向に疑念をもったヤヒヤー・ハーン大統領は、1971年3月、国民議会の招集を無期限に延期した。これに対しムジブル・ラーマンはヤヒヤー・ハーンとブットーをはげしく批判、対決姿勢を強めていく。同年3月半ば、ヤヒヤー・ハーンはダッカにおもむきムジブル・ラーマンとの会談にのぞんだが、話し合いは決裂。3月26日東パキスタンがバングラデシュ独立を宣言すると、パキスタン軍はいっせいに軍事行動をおこした。ムジブル・ラーマンは逮捕され、西パキスタンに連行されて国家反逆罪で裁判にかけられた。その後、東パキスタン各地で独立運動に対する軍事弾圧がおこなわれた。

東パキスタンにおける軍事弾圧は多くの犠牲者を出した。インド政府は1000万人にのぼる難民が国境をこえてインドへ流入したと主張している。アワミ連盟の指導者はカルカッタ(現、コルカタ)にのがれ、そこでバングラデシュ亡命政権を樹立した。1971年12月3日、難民流入を理由にインドが内戦に介入、第3次インド・パキスタン戦争に発展する。戦争は13日後の12月16日、東パキスタン駐留軍司令官がインド軍に降伏して終結し、バングラデシュは独立を達成した。12月20日、ヤヒヤー・ハーン大統領はブットーにパキスタンの政権を委譲した。

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