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  • 外務省: パキスタン・イスラム共和国

    「テロの脅威に対処するための新戦略」(アフガニスタン・パキスタンに対する日本の新たな支援パッケージ)(平成21年11月10日) ... 投資の促進及び保護に関する日本国とパキスタン・イスラム共和国との間の協定( 和文(PDF) / 英文(PDF) )(平成14年5 ...

  • パキスタン - Wikipedia

    日本語の表記は パキスタン・イスラム共和国 。通称は パキスタン 。 国名「パキスタン」は、 ペルシア語 起源の言葉で「清浄な国」を意味するパーキスターン(پاکستان Pākistān)に由来するとともに、パキスタンを構成する五大地域である パンジャーブ の P 、 北西 ...

  • 在パキスタン日本国大使館

    The 20th Anniversary of His Majesty the Emperor's Accession to the Throne Influenza A (H1N1) : the Current Situation in Japan Pakistan Donors Conference and Friends of Democratic Pakistan Group Ministerial Meeting 3rd International MANGA Award

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パキスタン

パキスタン Pakistan
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項目構成
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ブットー政権

大統領に就任したブットーはパキスタンを再建すべく、基幹工業、保険会社、国内資本の銀行、教育機関を国有化し、さらに土地改革を実施した。1973年4月、国会は新憲法を制定。これにもとづいてブットーが首相に、ファザル・エラーヒ・チョウドリが大統領に選出された。しかし、国有化政策と土地改革は財界人、大地主を敵にまわすことになる。宗教界もブットーの社会主義的政策をイスラムに敵対するものとみなした。

1977年3月におこなわれた総選挙は、ブットー政権とそれに敵対する勢力との対決となった。総選挙では9野党勢力が統一戦線のパキスタン国民連合(PNA)を結成し、ブットーのパキスタン人民党に対抗した。国民議会選挙で敗北したパキスタン国民連合は、与党パキスタン人民党が不正選挙をおこなったとして抗議運動を強め、つづく州議会選挙をボイコットする。多数の死傷者を出した抗議運動は6週間つづき、混乱の中で軍の政治介入の条件がととのえられた。

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ジア・ウル・ハク体制

事態打開の見通しがたたない中、1977年7月5日、陸軍参謀長ムハンマド・ジア・ウル・ハク将軍がクーデタをおこし、ふたたび戒厳令をしき憲法を停止した。ブットーは政敵殺害の罪で有罪判決をうけ、79年4月4日に処刑された。81年3月23日、ジア・ウル・ハク大統領は戒厳令が解除されるまでの暫定憲法を公布し、政党活動を復活させた。しかし、反政府運動を強めていたパキスタン人民党をふくめ、多くの政党は解散させられる。

1979年12月のソビエト連邦(ソ連)のアフガニスタン侵攻にともない、パキスタンには300万人をこえる難民が流入した。81年9月、ジア・ウル・ハク政権はアメリカから6年間に32億ドルという巨額な経済・軍事援助をとりつけた。85年2月には国民議会選挙が実施され、同年4月に新政府が発足、12月には戒厳令が解除されて形式上は民政移管が実現する。しかし、これは大統領権限の強化や軍人主導体制の確立をもりこむなど、憲法を大幅に修正して復活させたうえでの措置であった。ジア・ウル・ハク大統領はアフガニスタン問題などで新政府と対立、88年5月、国会の解散と新たな選挙実施を発表した。3カ月後、ジア・ウル・ハク大統領は飛行機墜落事故で死亡し、暫定政権が樹立された。

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民政復帰

暫定政権の大統領には官僚のグーラム・イスハーク・ハーンが任命され、1988年11月に総選挙が実施された。選挙ではパキスタン人民党が国会で第1党となり、パキスタン人民党党首でズルフィカル・アリ・ブットーの娘ベナジール・ブットーが首相に就任した。イスラム国家でははじめての女性宰相の誕生である。しかし、90年8月、イスハーク・ハーン大統領は不正と政治の非効率を理由にブットー首相を解任。10月の総選挙でパキスタン人民党は敗北、野にくだった。選挙に勝利したのはイスラム民主同盟で、ナワズ・シャリフを首相とする政府をうちたてた。財界出身の新首相は国営企業の民営化、外国投資の促進など市場経済化政策をとり、政情不安で疲弊した経済の再建をめざした。

やがて大統領と首相の権力争いが政治を混乱させていった。1993年7月、軍の仲介で両者は同時に辞任することで合意、これをうけて総選挙が同年10月に実施された。ベナジール・ブットーひきいるパキスタン人民党が国会、州議会選挙で過半数をとって勝利し、ブットーが首相にかえりざいた。

1996年11月、レガリ大統領は首相による司法権の独立の侵害や政治腐敗などの理由でブットー首相を解任し国会を解散した。それをうけて97年2月に総選挙がおこなわれ、野党のムスリム連盟が圧勝し、シャリフ党首が首相に就任した。

1990年代初めからインドとパキスタンの関係は緊張をましていた。カシミール問題をめぐる両国の会談が94年1月に決裂。同年2月、ブットー政権は全国規模のストライキを組織し、インド側カシミール(ジャム・カシミール州)でインド軍とはげしい戦闘をつづけているイスラム教徒のゲリラ勢力への支持を表明した。対立が深まる中、インド、パキスタン両国が核兵器開発競争にはしるのではないかという懸念が生まれた。

1994年3月、パキスタンはボンベイ(現、ムンバイ)のパキスタン総領事館を閉鎖し、12月にはカラチのインド総領事館を閉鎖するよう命じた。インドはニューデリーのパキスタン大使館の外交官15人を追放してこれに対抗した。95年1月、インドはパキスタンが会談再開の条件としたカシミールからのインド軍削減要求を拒否し、96年1月には停戦ライン付近で断続的に交戦がつづいた。97年3月になると、中断していたインドとの外務次官協議が再開され、5月の南アジア地域協力連合首脳会議の際には首脳会談がもたれ、カシミール問題をふくむ両国の懸案事項に関する協議機関の設置や捕虜・抑留者の釈放問題などで合意をみた。しかし、8月にはカシミールでインド・パキスタン両軍の軍事衝突が発生。98年5月には、インドが地下核実験を実施したことで、緊張が一挙に高まり、同月28日に、インドに対抗してバルーチスターン州のチャガイ山地で5回にわたる地下核実験を強行したのにつづき、30日にも1回の地下核実験をおこなった。第1回の実験後、タラル大統領は「パキスタンの安全保障に対する外部からの脅威」にそなえて、全土に非常事態を宣言した。

パキスタンは1990年代半ばから深刻な国内問題に直面した。インドからの分離独立時にインドから流入した人々「ムハージル」と元からいたシンディー民族がシンド州、とくにカラチで武力衝突をくりかえし、94年だけで650人以上が殺害された。武力衝突は95年になっていっそうはげしさをまし、3月にはアメリカ外交官2人が犠牲になった。また96年には、パンジャブ州でスンナ派とシーア派との武力衝突があいついだ。

1999年2月、ラホールでシャリフ首相とインドのバジパイ首相との会談がおこなわれた。両国首脳は、偶発的な核兵器使用をふせぐためのホットライン設置、ミサイル発射実験の際の事前通告、条件付きでの核実験凍結などを内容とする「ラホール宣言」を発表した。

5月、パキスタンのイスラム武装勢力が、カシミールの停戦ラインをこえてインド側のカルギル地区に侵入した。インド空軍機による空爆がくわえられ、地上でも大規模戦闘に発展した。7月、シャリフ首相はワシントンでアメリカのクリントン大統領と会談し、武装勢力の撤退に同意、事態は収拾された。

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再び軍政へ

1999年10月、シャリフ首相はムシャラフ陸軍参謀長の解任を発表した。カルギル紛争の処理をめぐって、ふたりの意見が対立したものとみられている。しかしムシャラフ参謀長の解任に反発する国軍が即日クーデタをおこし、シャリフ首相を逮捕・監禁した。権力を掌握したムシャラフは、憲法の停止を宣言し、首相に相当する最高行政官の地位についた。議会は機能停止においこまれ、ムシャラフを議長とする国家安全保障会議が国権の最高機関として設置された。

クーデタの際にムシャラフの搭乗する飛行機の着陸を妨害したのはハイジャック罪にあたるとして、特別法廷はシャリフに死刑を求刑した。クリントン大統領などの働きかけで極刑は回避され、シャリフは2000年4月に終身刑判決をいいわたされたのち、12月にサウジアラビアに国外追放された。

最高裁判所は、同年5月、クーデタを合法とし、1999年10月から3年以内の民政復帰を命令、軍政の最終期限を2002年10月12日とした。ムシャラフ最高行政官は、01年6月、名目的存在となっていたタラル大統領を解任し、みずからが大統領に就任した。同時に機能を停止していた下院と4つの州議会すべてを正式に解散した。ただ、民政への政治日程は変更しないと言明した。

2001年7月には、1999年のカルギル紛争で冷えきったインドとパキスタンの関係を改善するための首脳会談が、インドのバジパイ首相との間でおこなわれたが、カシミール問題での進展はなかった。また同年9月にアメリカ同時多発テロが発生し、その首謀容疑者がウサマ・ビンラーディンとのアメリカの発表をうけたパキスタン政府は身柄引き渡しをアフガニスタンのタリバーン政権に要求したが、タリバーンは拒否。パキスタン政府はアメリカを支援することに同意して、基地使用などアフガニスタンの攻撃に協力した。

その後、カシミールではテロが頻発し、2001年12月にはニューデリーにあるインドの国会議事堂に武装組織が侵入し、計12人が死亡、数十名が負傷する事件が発生した。犯行はパキスタンに拠点をもつイスラム系過激派によるものとされ、パキスタン政府はインド政府から武装組織に資金を提供していたと非難された。これに対しパキスタンは武装組織を制御するためにおこなっていたとして、インドの非難を否定。インドからの犯行組織の引き渡し要求に対して、パキスタンはこれを拒否したが、要求されたグループをふくむ5つの組織を非合法化した。しかし、カシミールでの戦火はつづき、両国間の緊張は高まった。停戦協定ラインへの軍隊配備も強化され、両国首脳とも「先制攻撃はありえない」と否定したものの、一時は全面戦争間近の空気がただよった。

2002年4月、ムシャラフ大統領は任期延長について国民投票をおこない、不正投票の指摘はあるものの国民の賛成をとりつけた。これにより同年10月の総選挙以降の民政移管後も政権を維持することが確実となった。10月におこなわれた総選挙では、大統領を支持するパキスタン・ムスリム連盟カイデアズム派(PML-Q)が第1党となり、以下、反大統領派のパキスタン人民党議会派(PPP-P)、イスラム原理主義政党の連合体である統一行動評議会(MMA)などがつづいた。パキスタン・ムスリム連盟カイデアズム派も単独過半数を占めるにはいたらず、パキスタン人民党の議員の一部やいくつかの少数政党の取り込みに成功してようやく連立内閣結成にこぎつけ、11月下旬にはパキスタン・ムスリム連盟カイデアズム派の幹事長ザファルラ・ジャマリが首相にえらばれた。しかし11月末には17議席をもつモハジール民族運動(MQM)が地方政策をめぐる対立から連立政権を離脱し、新政権ははやくも少数与党に転落した。なお、これに先だつ11月中旬、ムシャラフはこれまでの約束どおり、民政移管と憲法の復活を宣言したが、憲法改正により大統領権限が拡大されたため、民政復帰とはいっても実質は軍事政権継続とみられた。

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インドとの関係改善と、核兵器開発技術提供疑惑

インドとの間ではその後も不穏な情勢がつづいたが、2003年4月、インドのバジパイ首相の提案をうけて、ムシャラフ大統領とバジパイの電話による直接対話が実現した。そして5月には、01年12月のインド国会議事堂襲撃事件以後ひきあげたままだった両国大使が復帰し、また閉鎖されていたインドとの定期バス路線や鉄道、航空路が再開されるなど、関係正常化がすすんだ。その後03年11月、カシミールの停戦ラインと国境線全域での停戦合意が成立し、04年2月にはカシミール帰属問題や両国間の安全保障など、すべての懸案事項の解決をめざして5月から公式協議をすすめることで合意した。カシミール問題の解決を有利にはこぶためには両国とも対米関係を無視できず、これら一連の動きにはアメリカの水面下での働きかけが強く作用していた。

一方、イラン朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核兵器開発問題が注目される中で、パキスタンが両国に核兵器開発技術を提供したのではないかという疑惑が2003年11月に表面化した。イランが国際原子力機関(IAEA)に提出した報告書に、パキスタンの科学者から核兵器開発に必要なウラン濃縮技術に関する技術供与をうけたとの記述があったためである。04年1月、ムシャラフ大統領はその事実をみとめつつも、科学者たちによる個人的犯行であり、政府は関与していないと言明、関係科学者たちの厳罰を約束するとともに、その中心人物と目されるパキスタン「核開発の父」、アブドル・カディル・ハーン博士を科学技術担当の首相顧問から更迭した。ハーン博士は北朝鮮やイラン、リビアへの核技術流出にかかわったことをみとめたが、博士が責任をかぶるのと引き換えに政府が彼の赦免(しゃめん)をみとめるという裏取引がおこなわれたとの見方が支配的である。この疑惑を究明する過程で、世界的ネットワークをもつ核の闇(やみ)マーケットの存在が白日のもとにさらされることになった。

2005年10月8日、北部の山岳地帯でマグニチュード7.7の大地震が発生した。アザドゥ・カシミールや首都イスラマバードなどパキスタン側に死者8万6000人という大きな被害をもたらし、一方、停戦ラインをはさんで隣接するインドのジャム・カシミールでも1300人の犠牲者が出た。被災地域が狭い谷やけわしい山裾(やますそ)に多いため、パキスタン政府や諸外国のチームによる救援活動が難航したが、インド政府がパキスタン側住民のための救援施設をインド側にもうけると発表し、パキスタン政府も停戦ラインの5カ所でカシミール住民の往来を可能にするようインド政府に提案した。両政府はこれらに合意し、11月下旬から両国住民の徒歩による越境が開始された。すでにバスでの往来は05年4月に開始されていたが、徒歩による越境は1949年に停戦ラインがもうけられて以来はじめてのことである。徐々にすすみつつあったインドとの関係改善が、大災害をきっかけにさらに前進する結果となった。なお、この大地震では、イスラマバード在住の国際協力機構(JICA)日本人スタッフ1人とその長男が、高層アパートの崩壊により死亡した。

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