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    日本語では「 セルビア共和国 」、通称「 セルビア 」。英語においては「Republic of Serbia」、通称「Serbia」(サービア)である。 [編集] 歴史 「 セルビアの歴史 」も参照 [編集] 戦間期 第一次世界大戦 後、 1918年 の サン=ジェルマン条約 により、旧 オーストリア ...

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セルビア

セルビア Serbia
百科事典項目
項目構成
5

新ユーゴスラビアの形成

1991年、ユーゴスラビアが解体しはじめたとき、セルビアはそれまでの主導的な地位を保持し、また、ほかの共和国にすむセルビア人を保護するため、連邦の維持を主張した。クロアチア、スロベニア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナの4共和国が独立を宣言したあと、のこされたセルビアとモンテネグロは92年4月にユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)を形成した。しかし、国際社会はこれを承認せず、国際連合(国連)への加盟も拒否した。

1989~97年にセルビア大統領の座にあったミロシェビッチ(1997年からはユーゴスラビア大統領)は、政敵の追放、マス・メディアの統制などによって権力の保持をはかると同時に、91~92年にかけて次々と独立を宣言した4共和国に対して、連邦軍の名で干渉をくりかえした。そのため、とりわけセルビア人が多くすむボスニア・ヘルツェゴビナでははげしい内戦となった(ボスニア紛争)。この内戦は95年のデートン協定で終結したが、ユーゴ連邦は国際的な批判をあびることになった。

一方、ミロシェビッチは、セルビア国内の少数民族に対する抑圧も強めた。とくにアルバニア人の多いコソボ自治州に対しては1989年から軍事支配をつづけ、アルバニア人を職場から追放したり住居からの立ち退きをせまるなど、差別的な政策をおこなった。90年には、コソボおよびボイボディナ両自治州の議会と政府を解散させ、自治権をうばった。このため、セルビアを脱出する者があいつぎ、コソボの独立またはアルバニアとの合併、ボイボディナの自治復権を主張する声が高まった。

6

コソボ紛争

1996年4月、コソボでアルバニア系学生がセルビア人に射殺される事件がおこり、セルビア人とアルバニア人の衝突がはげしくなった。コソボ独立をめざすアルバニア人武装組織のコソボ解放軍(KLA)が結成され、穏健派をおしのけて主導権をにぎった。

1998年2月末、セルビア治安部隊がコソボ解放軍の掃討作戦を開始し、本格的な戦闘がはじまった。セルビア治安部隊は、アルバニア人の家屋破壊、無差別殺害をすすめ、国際的な非難がまきおこった。数十万のアルバニア人が難民となって、アルバニア、マケドニアなど周辺諸国へのがれた。9月、国連安全保障理事会の即時停戦決議、10月、NATO(北大西洋条約機構)の軍事介入警告、ヨーロッパ安全保障協力機構(OSCE)による監視団常駐によって事態は一時沈静化した。

1999年2月から、ユーゴスラビア連邦・セルビア共和国政府とアルバニア系住民の和平会議が、アメリカ、ロシアなど6カ国の仲介でおこなわれた。3月、アルバニア人側は6カ国提案の暫定協定案を受諾したが、連邦側は拒否した。コソボ監視団が撤退し、3月24日、NATO軍によるユーゴスラビア各地への空爆が開始された。連邦軍がコソボに本格投入され、セルビア人民兵組織もくわわって、アルバニア人に対する「民族浄化」作戦がすすめられた。

6月3日、連邦政府は和平案を受諾、10日空爆は停止された。国際治安部隊が派遣されるとともに、国連コソボ暫定統治ミッション(UNMIK)が発足し、コソボは事実上、国連管理下におかれた。今度は逆に、アルバニア系住民によるセルビア人に対する報復事件が頻発し、セルビア系住民の流出がつづいた。

国連管理下で、2000年10月にコソボ内各自治体の議会選挙、翌01年11月には州議会選挙がおこなわれた。これらを通じてコソボは、UNMIKの管理下ではあるが、自治政府をもつ「準国家」的な存在となり、セルビアとの関係はたたれた。

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ミロシェビッチ体制の崩壊

この間、1997年にユーゴスラビア連邦大統領に転出したミロシェビッチのあとのセルビア共和国大統領には、腹心のミルティノビッチがついた。コソボ紛争中もミロシェビッチ体制は維持されたが、世界各国による経済制裁が長期化する中で国民の生活は悪化し、民族主義をあおるミロシェビッチの支配はくずれていった。

2000年9月のユーゴスラビア連邦大統領選挙で野党連合候補のコシュトゥニツァにやぶれたミロシェビッチは、セルビア社会党内の支持も急速にうしない、その社会党も一般の支持をうしなった。同年12月におこなわれたセルビア議会選挙では、コシュトゥニツァを支持する民主野党連合が圧勝、社会党は惨敗した。

オランダのハーグにもうけられている国際連合(国連)の旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷は、コソボ自治州のアルバニア系住民に対する殺人や迫害などの罪でミロシェビッチを起訴、国際逮捕状を出していたが、セルビア政府は、2001年6月28日にミロシェビッチを戦犯法廷にひきわたした。それに先だつ4月1日に職権乱用の容疑でセルビア当局はミロシェビッチを逮捕したが、戦犯法廷への引き渡しについてはコシュトゥニツァ連邦大統領が慎重な態度をとり、セルビア共和国首相のジンジッチがそれを無視したかたちで強行した。ミロシェビッチに対する裁判は、7月3日にはじまった(のちの2006年3月、ミロシェビッチは裁判中に死亡)。

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連合国家への移行

ボスニア紛争やコソボ紛争によって国際的な制裁をうけたユーゴ連邦は、経済的な困難におちいり、これらの紛争に直接かかわっていなかった連邦構成国のモンテネグロは、しだいに独立への傾向を強めていった。コシュトゥニツァ大統領は連邦の再編を模索したが、モンテネグロとの調整は難航した。モンテネグロの独立がコソボやマケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナにあたえる影響を懸念したEUが仲介に入り、2002年にようやく合意が成立した。

2003年2月の連邦議会は新憲法案を採択、その結果、ユーゴ連邦は連邦制から連合国家に性格をかえ、連合政府の権限は大幅に縮小された。国家名も「セルビア・モンテネグロ」にかわり、1929年以来つかわれてきたユーゴスラビアという国名は消滅した。初代大統領には、共通議会で選出されたモンテネグロのマロビッチが就任した。新憲法には、3年後にモンテネグロで独立の是非を問う国民投票をおこなうこともふくまれていた。

新連合国家がうごきはじめた2003年3月、独立国家のゆるい連合体を主張してきたセルビアのジンジッチ首相が、ミロシェビッチ時代から暗躍していたマフィアによって暗殺され、非常事態宣言が出される事態となった。後任の首相にはジブコビッチ元ユーゴ連邦内相が就任し、ジンジッチの改革路線は継承されることになった。

この間の2002年10月にセルビア共和国の大統領選がおこなわれ、連邦大統領からの鞍替(くらが)えをはかるコシュトゥニツァが多くの票を獲得した。しかし、規定の投票率50%にとどかず不成立となった10月につづき、12月の再選挙でも投票率が50%をわり、これも不成立となった。03年11月におこなわれた大統領の再々選挙には、コシュトゥニツァがひきいるセルビア民主党が、大統領選出を議会でおこなうよう主張してボイコット、結局この選挙も、3回の中で最低の投票率で不成立となった。

2003年12月には共和国議会選挙がおこなわれ、極右民族政党といわれるセルビア急進党が約3割の得票率で82議席をえ、第1党となった。同党の躍進は、ミロシェビッチ体制崩壊後の民主改革派政権が国民生活を向上させることができず、国民が嫌気をおこした結果だった。なお、この選挙には、公判中で拘置所に収容されているミロシェビッチ党首を、セルビア社会党が比例代表名簿1位で登載、同党は議席配分条件の得票率5%を突破して22議席を獲得、ミロシェビッチは当選した。また、躍進したセルビア急進党の党首で同党の名簿1位に登載されたシェシェリも、ミロシェビッチと同様拘置されていたが、当選した。ただし、2人とも実際の議会活動が不可能なため、それぞれの党が提出した議員名簿にはふくまれなかった。

共和国議会選挙後の連立政権づくりは難航したが、2004年3月、セルビア民主党を中心に、コシュトゥニツァを首相とする連立政権が誕生した。この政権には第1党のセルビア急進党はもちろん、第3党の民主党も参加しなかったため、少数政権となった。

一方、4回目の大統領選挙は、投票率が50%に達しない場合は無効とするとの規定を議会で廃止して、2004年6月におこなわれた。決選投票の末、民主党のボリス・タディッチが、セルビア急進党のトミスラフ・ニコリッチをやぶり当選した。極右民族政党のセルビア急進党に対し、コシュトゥニツァ首相ら与党陣営がタディッチ支持にまわった結果であった。

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モンテネグロが分離・独立

2003年2月の連合国家への移行の際に実施がきめられていたモンテネグロでの国民投票は、06年5月におこなわれ、独立支持が55%をこえた。この結果、6月にモンテネグロは正式に独立、セルビアは単独の共和国となった。これによって旧ユーゴスラビアはもとの6カ国に解体した。あらかじめの合意により、セルビア・モンテネグロの国連議席など国際的な地位は、セルビアが継承することになった。

モンテネグロとの連合解消をうけてセルビア議会が可決した新しい憲法案が、2006年10月の国民投票で承認された。ミロシェビッチ時代の1990年に制定された憲法にかわるものだが、新憲法は、将来的地位が未確定のコソボ自治州を「不可分のセルビア領土」と明記しており、コソボの独立を要求しているアルバニア系住民の大半は国民投票をボイコットした。

2006年11月、セルビアは「平和のためのパートナーシップ」(PfP)への参加がみとめられ、NATO(北大西洋条約機構)加盟にむけて一歩前進した。一方、EU(ヨーロッパ連合)加盟の前段階となる安定化・連合協定(SAA)の締結交渉は05年10月に開始されたが、ボスニア内戦時のセルビア人武装勢力の軍事司令官で旧ユーゴ国際戦犯法廷に起訴されているムラディッチの引き渡しに非協力的だとして、06年5月、EUはセルビアとの交渉を停止した。

2007年1月、ミロシェビッチの死後初の総選挙が実施され、前回選挙で最大勢力になった国粋的民族主義のセルビア急進党が81議席をえて第1党を堅持した。しかし同党と連立をくむ政党がなかったため、第2党で親欧米の民主党が中心になって連立交渉を開始。ようやく5月に、民主党、セルビア民主党、G17プラスなどによる連立政権が発足した。首相には、セルビア民主党のコシュトゥニツァが留任した。選挙後、民主派政権の発足を後押しするためSAA交渉再開の条件緩和を表明していたEUは、5月末にセルビア警察がムラディッチの側近を逮捕したことを評価して、6月、凍結していた交渉を再開した。

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