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項目構成
プロローグ; ナチズムの起源と勃興; 第1次世界大戦後のドイツ; ナチ党の結成; 党の指導権をにぎったヒトラー; ミュンヘン一揆(ビアホール一揆); ナチ党と国会選挙; ナチズムの宣伝と普及; 1933年以後のナチ党組織; ドイツ社会の再編; 戦争経済としての「新秩序」計画; ナチズムがもたらしたもの
1920年2月の集会後しばらくして、党は、国民社会主義ドイツ労働者党と改名した。新しくなった党は、バイエルン州を中心に、しだいに成長していった。目的遂行のための暴力の必要性と有効性が認識され、まもなく、突撃隊(SA)という名の武装した私兵が組織された。突撃隊の役割は、集会を防衛し、民主主義者・社会主義者・共産主義者・労働組合員らの集会を破壊し、ユダヤ人とりわけユダヤ商人を虐待することだった。突撃隊の中心となったのは、軍の不平将校たちで、エルンスト・レームが隊長となった。 1921年、ヒトラーは、ナチ党の「第1議長」にえらばれ、独裁的指導権を手中におさめた。同年ナチ党は、正規の党章として、赤地の旗の中央に大きな白い円を配し、円内に黒のカギ十字(ハーケンクロイツ)をかきこんだ旗を採用した。ついでヒトラーは、23年にナチ党の日刊機関紙「フェルキッシャー・ベオバハター(民族の監視者)」の刊行を開始した。19年創設のドイツ共産党がしだいに勢力をのばしていくにつれ、ナチ党は、攻撃の重点をボリシェビズム・共産主義に集中し、共産主義はユダヤ金融家の国際的陰謀であると宣伝した。また、議会制民主主義に対する軽蔑(けいべつ)と、独裁の樹立を盛んにうったえた。
1923年11月8日、武装した600名の突撃隊員とともに、ヒトラーはミュンヘンのビアホールにのりこんだ。そこではバイエルン州総監グスタフ・フォン・カールが、閣僚たちと公開の演説をしていた。ヒトラーは、カールとその側近をとらえ、ルーデンドルフ将軍をともなって、カールの名で国民革命を宣言し、ドイツの新政府樹立を宣言した。そのあとルーデンドルフ将軍はカールを解放したが、カールは、すぐさまヒトラーとルーデンドルフ追撃の措置をとった。翌11月9日、行進する突撃隊は、州警察隊に銃撃され、小競り合いののち、十数名の死者をのこして、ヒトラーと側近たちは逃走した。 こうして、いわゆる「ビアホール一揆(いっき)」は失敗におわった。ヒトラーとルーデンドルフは逮捕され、ルーデンドルフは放免されたが、ヒトラーは裁判にかけられ、5年の禁錮刑を宣告された。ナチ党と突撃隊には、禁止命令がくだされた。この獄中でヒトラーがヘスに口述筆記させたのが、「わが闘争」である。これは、ナチズムの教義、宣伝方法、ドイツ全土とヨーロッパの征服計画について、率直に表明したもので、のちにナチズムの聖典となった。 1926年、ヒトラーは、党の「フューラー」(指導者、のちには総統の意)となり、親衛隊(SS)とよばれる、黒シャツの武装組織を編成した。以後親衛隊は、党とその準軍事組織である突撃隊とを監視・支配するための、エリート部隊として知られるようになる。 1929年、世界恐慌(→ 恐慌)の勃発(ぼっぱつ)によって、外国資本の流入がとだえた。対外貿易は衰退し、ドイツ産業の回転は速度をゆるめ、失業が極度に増大、農産物価格は下落した。不況が深刻化するにつれて、革命成熟の状況があらわれはじめた。ティッセン合同製鋼社会長フリッツ・ティッセンをはじめとする資本家たちは、ナチ党への財政援助をおこないはじめたが、ドイツ資本家の多くは、それまでどおり、ナチ党に反対していた。
ナチ党の運動は急速に発展し、党は多数の人々を吸収してふくれあがった。その中には解雇された家事使用人たち、破産にひんした商店主や小企業家たち、極貧にあえぐ農民たち、社会民主党や共産党に幻滅した労働者たち、そして混乱の戦後期にそだち、生活に必要な収入を得ることができないために生活に絶望した、さまざまな階層の若者の大群がいた。 1930年9月の国会選挙で、ナチ党はおよそ650万票を獲得し、18%以上の得票率をあげた。28年の国会選挙での獲得投票数80万票そこそこ、得票率約2.5%、議席数12と比較すれば、大躍進だった。107議席を得、143議席の社会民主党につぐ第2党となった。460万票を獲得した共産党も、同じく躍進し、77議席を得た。 1932年7月の国会選挙では、ナチ党は1370万票を獲得、得票率37.4%、総議席数670のうちの230議席を占めた。絶対過半数に達しなかったが、いまや第1党となったナチ党に対して、ヒンデンブルク大統領は、ヒトラーのために連立内閣中の副首相の座を提案した。ヒトラーは拒絶し、首相以下ナチ党員による政府を要求した。こうした状態の中で、首相を辞任していたパーペンが画策し、33年1月30日、大統領ヒンデンブルクは、ヒトラーを首相に任命した。このときから党は、ナチ国家の建設に着手した。 新たな国会のための総選挙を数日後にひかえていた1933年2月27日の夜、国会議事堂が何者かの放火によって(おそらくはナチ党によって)炎上した。ナチ党は、事件は共産党のしわざであるとして、翌日大統領緊急令をださせて、共産党を狂暴に弾圧した。まもなく社会民主党も暴力的に弾圧されたが、どちらの党も、組織的抵抗を展開することができなかった。ひきつづきその他の全政党が非合法化され、新党結成の試みは犯罪とされた。こうしてナチ党は、唯一の合法政党となった。 ついで、1933年3月24日の全権委任法によって、国会は立法権を放棄し、その権限を政府に委譲したが、この全権委任法は、共和制の終焉(しゅうえん)をしめすものだった。ヒトラー政府は、どんな内容のものでも、すぐさま法律として発布することができることになり、独裁体制がかためられていった。そして、12月1日の法令によって、ナチ党と国家は一心同体とされた。
ナチ党は1930年初めには多くの日刊紙・週刊紙を発行してナチズムの大衆化につとめ、演説者はマイク、スピーカー、レコードなど当時の最新の技術を導入して自説をうったえた。また、全国各地区に党組織をもうけ、それを大管区、管区、郡支部、細胞、ブロックにくくりピラミッド状に整備して党指導部の命令系統の一元化をはかった。ゲッベルスが啓発宣伝相になってからは新聞をはじめ文化全体を国家が統制するようになり、芸術家たちをたばねるドイツ国文化院や、ナチ教師同盟、ドイツ文化擁護同盟などを通じてナチズムの宣伝をおこなった。
以後、ナチ党組織は、ドイツの国家と社会を全体主義的に支配する主要な道具となり、党の指導層がその支配を行使した。ほとんどの国家・州・市町村の上層官僚は、またたく間に忠実なナチ党員によって占められた。18歳以上の「純粋」ドイツ人からなるナチ党員は、総統に忠誠をちかい、彼らの行動は帝国法によって特別なナチ党裁判所でしかさばかれないことになった。名目上は入党は自由意志によってなされ、数百万人がすすんで入党したが、意に反して入党を強制された多くの人々がいた。とりわけ官吏が、入党を強要された。こうして、最盛期には約700万の党員を擁したといわれる。 ナチ党の第一の補助組織は、突撃隊(SA)である。突撃隊は、「国民社会主義革命の守護者」「国民社会主義の前衛」と称されたが、実質はテロの機関だった。とくにナチが政権を掌握したあとの数カ月間、反対者を虐殺し、弾圧し、その職をうばい、にわか仕立ての強制収容所におくりこんだ。その後、突撃隊は、毎年、貧民のための「冬季救済」募金をおこない、ドイツの労働者・農民から多額の金銭を徴収した。 もうひとつの重要な党機構は、親衛隊(SS)である。親衛隊は、突撃隊とならぶテロの機関だったが、大戦時には、国防軍が劣勢のとき前線に支援部隊を投入した。親衛隊は、党・国家の諜報機関である保安部(SD)とくんで、戦争末期には党そのものを支配した。保安部は強制収容所を運営し、何百万人という犠牲者をだした。 ナチは、党の青少年組織ヒトラー・ユーゲント(HJ)をドイツ唯一の青少年団体とし、10歳から18歳までの少年少女を訓練して、国防軍、突撃隊、親衛隊、党におくりこんだ。 秘密国家警察ゲシュタポは、1933年に、ヒトラー体制の反対者を弾圧するためにもうけられ、36年に正式に国家機関にくみこまれたが、その際、法の統制に服さず、ただゲシュタポ指導者ヒムラーと総統ヒトラーに対してのみ責任を負うと宣言された。
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