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項目構成
「古事記」には、イザナキノミコトとイザナミノミコトの2神が「天の浮橋」にたったことが記されており、これが橋という言葉がつかわれた最初であると考えられる。そのあとの「日本書紀」には、さらに「高橋」「打橋」などの名称もでてくるところから、8世紀ごろ、すでに橋が存在していたことが考えられる。 奈良後期の「万葉集」には、石橋(いわはし)という枕詞をつかった歌があり、平安時代の「源氏物語」には「夢の浮橋」の巻がある。鎌倉時代になると、藤原定家の「春の夜の夢の浮橋とだえして、峰にわかるる横雲の空」をはじめとして、橋を主題とした歌がつくられるようになった。当時の橋の施工技術は、かなり進歩していたようだが、歌の内容から考えると、実際に彼らのわたっていた橋の多くは、あまり堅牢(けんろう)なものではなかったようである。 丸太を利用する本格的な桁橋(けたばし)ができたのは古墳時代だが、この時代にやっと鉄製の手斧(おの)、まさかり、鉋、鑿などが一般的になった(→ 木工具)。つづいて奈良時代には朝鮮半島からの輸入鉄材などで、鉄製工具の使用はいっそう普及したが、板作りの道具としては手斧、鉋、楔などであった。平安時代になると、鉄製の道具はますます発達して、より盛んに使用されるようになったが、鋸(のこぎり)はあまり利用できなかったらしい。大型の鋸をつかって板材を製作するのは、室町時代の中ごろ(15世紀)になってからである。
橋には、さまざまな種類と形がある。日本古来の橋には大きくわけて、木材をつかう桁橋、舟橋、吊り橋、特殊な構造の肘木橋(ひじきばし)などと、石材を使用した石橋のほかに、木材と石材を併用したアーチ型の太鼓橋(たいこばし)などの種類があった。
桁橋は、2本の橋脚の間に横木を水平にわたした橋台に桁板をかけ、その上に板などをわたしたもので、その原形は丸太の一本橋である。 桁橋の構造はすでに飛鳥時代(7世紀)には建設されていたが、この時代はまだ橋脚として川の浅い場所に杭(くい)を2本ずつうちこみ、横木をわたし、その上に橋桁として丸太や板をならべた簡単な構造であった。当時の技術はまだ幼稚だったので、長い橋では浅い所にしか杭をうてず、できあがった橋の形はまっすぐではなく、ジグザグになったものが多かった。 桁橋で、日本の歴史上最古のものは、4世紀前半の猪甘(いかい)の津の橋(大阪市東成区猪飼野町)であろう。このように原始的な桁橋は近代にいたるまで全国には多数あり、現在でも東京都文京区の旧水戸邸の庭園だった後楽園にある「八橋」などはこの形式である。 9世紀になると、ほぼ木橋は完成し、東海道、東山道の河川に橋をかけたという記録がある。この当時の三大橋として有名なものには宇治、山崎、瀬田の3橋があるが、ほかにも遠江(とおとうみ:現静岡県)の浜名橋や三河(みかわ:現愛知県)の矢矧橋(やはぎばし)、豊川の吉田橋などがある。京都の四条大橋や、牛若丸伝説(→ 源義経)で知られる五条大橋もこの時代にできた。
水上に舟やいかだをつらね、その上に板をのせて橋としたもので、古くは浮橋ともいった。江戸時代の末まで、全国に多数の舟橋があり、各時代の記録がのこっている。
日本古来の吊り橋には、その用材として太く強い藤蔓(ふじづる)が多用されていた。中部地方の信濃や飛騨の舟津川にかかっていた長さ43.6m、幅1.5mの吊り橋や、阿波(徳島県)の祖谷渓の蔓橋(かずらばし)が代表的である。吊り橋をわたるときは、たいへんな恐怖心をともなったようで、それは松尾芭蕉が「かけはしや いのちをからむ つたかずら」とよんだほどであった。 現在も昔の形をとどめる橋はなくなったが、祖谷渓の蔓橋は現存している。これは長さ45m、幅1.5m、谷川から15mの高さにわたされた橋で、重要民俗資料に指定されている。 現在の吊り橋には、直径5~12mmの鋼線を何本もたばねて、太い鋼鉄製ロープにしたものを使用して橋桁をつっている。とくに最近ではコンピューターの導入で、複雑な計算が瞬時にしてできるので、架橋の技術も日進月歩となった。今や日本の吊り橋の技術は世界のトップレベルにあるといえよう。
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