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項目構成
肘木橋(ひじきばし)の構造は、まず梁(はり)にする木材を一方の端を土中にうめて固定し、もう片方の端を空中につきださせてフリーの状態にし、横木をおいた上に1段ずつ木材をずらして同じ形で重ね、しだいに中央へつきだしていく。これに橋桁や橋床(きょうしょう)をのせる。この梁を片持ち梁というが、これを利用した肘木橋の架け方は、1対の橋桁を両岸からつきださせ、次々に距離をつめながら橋桁や橋床をのばし、最後に両端を連絡させて完成する。
山梨県大月市の猿橋は、黒部の愛本橋(あいもときょう)、木曽の桟橋(かけはし)とならび、昔から日本三大奇橋のひとつとされる(桟橋のかわりに山口県岩国市の錦帯橋(きんたいきょう)をあげる説もある)。桂川の深さ31mの渓谷にかけられ、橋脚のない肘木橋の一種である。その起源は明確ではないが、伝説によれば、推古天皇の時代(592~628)に来朝した百済の博士が、猿の群れが蔦(つた)をつかって川をわたるのにヒントをえて橋をかけ、その名もこれにちなんだといわれる。いずれにしてもかなり古い創建であることはまちがいない。この橋の最初の架け替えは1676年(延宝4)で、以後幕末までに9回の架け替え工事があり、その間に11回の大修理がおこなわれている。なお現在の橋は、1984年(昭和59)に改修されたものである。
錦帯橋は基本的には猿橋と同じ肘木橋の一種である。日本で唯一のアーチ型3連の木造橋で、日本の木造、石造の橋の中で最長である。山口県岩国市の錦川に城の大手門前の橋としてかけられたもので、錦川は、本来は城の守りになっている川だが、暴風雨や洪水のときには氾濫(はんらん)して、城内と城外の往来が途絶した。 そうした弊害を解消するため、岩国藩3代藩主、吉川広嘉(きっかわひろよし)の手によって、1673年に最初の橋がかけられた。しかし、一度にかけられる橋の長さには限度があった。そこで考えられたのが迫(せり)持ちでささえるアーチ型の手法で、橋をささえるための石台を両岸の土手に2個、川の中央に4個築造して橋をかけた。ところが、はやくも翌年の大洪水によって中央の石台がくずれ、橋はながれてしまったため、3年後の76年にふたたび建設された。 すべてを木材で構成した35mのアーチ橋は世界にも類がなく、その美しさとともに有名である。だが、300年以上もの長期にわたって存続することができた理由は、たんに橋の上部構造が優秀なだけでなく、もっとも重要な点は、強い石組みの橋脚と川底の石張りの技術と、それを保護する橋脚の補強と川床の整備に力をいれたことである。しかし、1674年(延宝2)の再建以来、さしもに堅固であったこの橋も、1950年の台風による洪水のため第2、第3の橋脚がこわれたため再建したが、その再建にあたっては旧来の手法をそこなうことなく近代的な設計がほどこされ、3年後に完成した。
石材、煉瓦、コンクリートなどの材料を橋桁に使用するものを総称して石工橋という。その中でとくに主要材に石をつかっているのが石橋である。石橋の起源は、おそらく川の浅瀬に石をおきならべたもので、「万葉集」にうたわれた石橋(いわはし)は、この種の飛び石だった。やがて川幅のせまい所に、1枚の石をかけるようになったが、石は主として橋脚や橋台に利用された場合が多い。 612年に、百済人が御所の庭に呉橋(くれはし。中国風の石橋)をつくったと「日本書紀」にあるのが、記録として最古である。 現存する石橋で最古のものは、13世紀中ごろに建造された奈良県の笠置山中の堂橋とされている。江戸時代の初期には中国の技術が移入されて、アーチ構造の石橋が建造されるようになった。しかしヨーロッパにくらべ、日本では石橋はあまり発展しなかった。その理由として、石材の入手がむずかしかったこと、たびたび流失するので、木材をつかうほうが経済的だったことなどがある。石造のアーチ橋は長崎県、熊本県を中心に九州地方にみられる。長崎市の眼鏡橋(めがねばし)は、中国江西省の人、黙子如定禅師(もくしにょじょうぜんじ)の設計と施工管理によって、1634年(寛永11)に完成した。このあと在留中国人と日本人により、長崎では中島川を中心に、65年間に21の橋がかけられている。 同様な眼鏡橋は1839年(天保10)に諫早市の本明川にもかけられたが、1957年の洪水のとき流木をせきとめて被害を大きくしたため、現在では諫早公園にうつされている。 また1854年(安政元)に建設された熊本県山都町の通潤橋(つうじゅんきょう)は、サイフォンの原理を応用した水道橋で、石造アーチ橋の見事な技術をしめしている。毎年9月第1土曜日、日曜日の八朔祭(はっさくまつり)に、多くの観光客をあつめて放水の行事がおこなわれる。 近代の石橋としては、1887年(明治20)、それまでの木橋にかえ石造の眼鏡橋として建設され、今もなお皇居の壕(ほり)にかかる二重橋が有名である。
水道や水力発電用の水路をとおす橋を、水路橋または水道橋という。日本では、江戸時代に今のJR中央線水道橋東口駅前にかかっていた水道橋(現在も石橋がかかっている)は、少し下流にこの橋とならんで、神田上水の懸(か)け樋があったので、この名があるという。だから、これは厳密にいえば真の水道橋ではないが、その仲間にはちがいない。 神田上水は井の頭のわき水をこの樋によって江戸市内におくり、市民に供給していた。そこで、いわゆる江戸っ子にとっては「水道の水で産湯をつかった」というのが、自慢のひとつでもあった。
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