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アフリカ人を先祖とするアメリカ人。かつてはニグロ(negro)とよばれたが、その差別的含意からこの語は現在ではもちいられない。1960年代から、ブラック・アメリカン(またはブラック)、アフロ・アメリカンが自称としてもちいられるようになり、現在ではアフリカン・アメリカン(アフリカ系アメリカ人)という呼称が一般的である。この項目ではカナダもふくめてのべる。 北アメリカの黒人人口の大半はアメリカ合衆国にすみ、合衆国総人口の約12%、2998万6060人(1990年)におよぶが、カナダでは全人口の1%以下の17万人余りにとどまる。そのほとんどは、スペインが植民地における奴隷貿易をはじめてみとめた1501年から、アメリカが新規の奴隷輸入を禁止した1808年までの間に、アメリカ大陸に奴隷としてつれてこられたアフリカ人の子孫である。アフリカ系アメリカ人はアメリカにおけるエスニック・グループとして最大の存在であり、西半球ではアフリカ系ブラジル人につぐ人口規模をもち、またアフリカの各エスニック・グループとくらべても、これに比するものはない。 メキシコの場合にはアフリカ系アメリカ人と他の人種との混血が広範にみられたが、アメリカやカナダでは、黒人は社会的・文化的に隔絶された状態におかれるのがふつうだった。さまざまのアフリカ文化の価値意識や行動様式は、北アメリカの多数派である白人に抑圧されはしたものの、黒人はアフリカ的慣習とヨーロッパ文化の要素を結合させて、多様で弾力性のあるアフリカ系アメリカ人の文化をつくりだし、それは黒人以外の人々にも相当な影響をあたえたが、とりわけ音楽・舞踊・美術などの分野で顕著である。 反面、黒人の側では、固有のアイデンティティと独自の関心を保持しつつも、白人が支配する社会で生きのびていくために白人の言語や社会的技能を吸収してきた。北アメリカにおける黒人の歴史は、公民権、経済的平等、政治的自決をめざすきびしい闘いのたえざる積み重ねによって特徴づけられる。
ブラジルやカリブ海地域が16~17世紀にサトウキビ・プランテーションにアフリカ人をひろく導入して成果をあげていたことは、北アメリカのヨーロッパ系植民者にとってひとつのモデルとなった。北アメリカではアメリカ先住民(インディアン)や白人の年季契約奉公人が、農業労働の需要にこたえられなかったからである。スペインによるメキシコ征服の際、アフリカ人は案内役や兵士として使役されたが、北アメリカにつれてこられたアフリカ人の大半は、タバコ、米、インディゴ、木綿などの輸出作物の生産に投入され、これらの商品はヨーロッパ諸国が植民地からひきだす富の主たる源泉となったのである。 プランテーションが拡大・発展していく中、北アメリカのイギリス人植民者は労働力不足を解消するために、しだいに黒人奴隷制(→ 奴隷制)に傾斜していった。スペインは16世紀に10万人以上のアフリカ人をメキシコに移入したが、イギリスが本格的に奴隷貿易に着手するのは1672年に王立アフリカ会社が設立されたのちのことである。すでに少数のアフリカ人がイギリス領北アメリカにきていたが、その境遇は当初、白人の年季契約奉公人と類似したもので、17世紀末までは白人年季契約奉公人が農業労働力の中核だった。この時期に白人労働者の地位はしだいに改善されたが、黒人はプランテーション労働力の核となるように法規が整備され、奴隷としての服従を強制されていった。人種間の交婚は禁じられ、奴隷身分からの解放に制約がくわえられ、さらに白人にあたえられる政治的権利や経済的機会からも完全にしめだされることになったのである。
黒人たちはアフリカでとらえられたときから、奴隷化に抵抗してきた。しかし、ブラジルやカリブ海地域とはちがって、北アメリカでは白人人口の規模がうわまわっていたため、大規模な奴隷反乱はそれほどみられなかった。北アメリカのアフリカ人の典型的なコースは、西インド諸島でまず「ならす」過程をへて、大陸にきて「調教」されるというもので、これによってアフリカの文化的な根を骨抜きにし、奴隷労働に要求される態度や服従の習慣をうえつけようとするものだった。 白人の奴隷主はアフリカ文化を抑圧して、奴隷が英語を話し、白人によってうえつけられた技能や知識にたよるようにしむけたほうが奴隷をあつかいやすいと信じていた。しかし、そうした意図が完全に成功したわけではない。奴隷たちのアフリカ化された英語、キリスト教、西洋文明のそのほかの要素、こうしたものから彼らは独自のアフリカ系アメリカ人の文化を生みだしたのである。 北アメリカではアフリカ生まれの奴隷一世の比率が低下するにつれて、アフリカへ帰還しようとしたり、逃亡奴隷のコロニーをつくろうという動きは少なくなったが、奴隷や自由身分の黒人たちの指導のもとに抵抗は持続し、彼らは黒人の地位向上のために白人社会からえた知識を活用した。白人の奴隷主は奴隷の教育や宗教的活動を制約していたが、読み書きの能力とキリスト教はしばしば個人的ないし集団的抵抗の原動力となり、残虐な扱いや奴隷制そのものにはむかわせることになった。
18世紀に民主主義と平等主義の理念が白人の間でもてはやされるようになるにつれて、黒人の反抗もここから新たな刺激をえた。アメリカ独立革命(1775~83)の時期に白人社会が分裂している状況を黒人奴隷たちは利用した。イギリス側についてたたかう黒人奴隷には自由をあたえるというロイヤリスト(王党派)の呼びかけに数千の者が応じ、独立戦争後には何千という黒人ロイヤリストがカナダにのがれ、その多くはノバスコシア植民地などに定着した。また約5000人の黒人がアメリカ独立軍側でたたかった。独立戦争後、革命的イデオロギーとクエーカーの敬虔(けいけん)主義に触発されて奴隷制に反対する新たな活動が、黒人と白人の双方からおこってきた。黒人たちは、解放、待遇改善、アフリカへの帰還のための立法をうったえた。 北部では白人の態度のリベラル化がみられたが、南部では1790年代にアメリカのホイットニーが発明した綿繰り機が導入され、それによってえられる利潤のために、事態は逆の方向にすすんでいた。18世紀を通じてワタ栽培が深南部と南西部諸州にひろまるにつれて、奴隷労働を前提とする南部の超保守主義的な政治体制の浮上をうながすことになったのである。このような後退があったとはいえ、アメリカ独立革命、フランス革命(1789~99)、ハイチのトゥサン・ルベルチュールの奴隷反乱(1791)などにあらわれた理念やキリスト教的理想主義とアフリカ伝来の民衆的信念は、19世紀の奴隷反乱に明らかに体現されていた。たとえば、バージニア州でのガブリエル・プロッサー(1800)やサウスカロライナ州でのデンマーク・ビージー(1822)らの指導による反乱計画はその顕著な例である。南北戦争前における最大の反乱といわれるバージニア州のナット・ターナーの反乱(1831)は、白人・黒人双方に多数の死者をだし、奴隷がますます抑圧される契機となった。以後は逃亡、道具の打ち壊し、散発的な暴動などの小規模な抵抗が継続され、プランテーションに打撃をあたえつづけた。
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