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ダム

ダム Dam
百科事典項目
項目構成
2

近・現代

明治期以降は、外国人技術者の起用により、ダム建設にも西欧の近代工法が導入される。同時に、ダム建設の目的は、従来の灌漑用の溜池だけでなく、水道ダム、水力発電用ダムなど、多目的になっていった。

水道ダムとしては、1889年(明治24年)にアースダムの本河内高部ダム(長崎市)、1900年には、はじめての重力式コンクリートダム、布引五本松ダム(神戸市)が建設された。大規模な水道ダムとしては、東京都の水がめのひとつである小河内ダム(奥多摩湖)がある。このダムは、30年(昭和5年)に計画されたが、度重なる障壁をのりこえて戦後、57年に完成している。水力発電用ダムとしては、はやくも12年に有効貯水量88万4000m³の関西電力・峰山アースダム(兵庫県神河町)が竣工している。

その後も、全国の河川で水力発電用ダムが建設されたが、小規模なものがほとんどであった。また数度の戦争により、計画が延期されることも多く、大規模な水力発電用ダムは、新しい工法や新型の機械力を導入して、ほとんどが戦後の着工である。

XIII

ダムによる被害

エジプトのアスワン・ハイ・ダムは、1960年代に完成したが、そのため、古代エジプトの遺産であるアブシンベル神殿の移築に、ユネスコをはじめとする国際協力があり、世界じゅうから莫大(ばくだい)な寄付金をあつめなければならなかった。そのうえ、耕地や漁場の喪失、海岸の浸食、とくに塩の侵入という予期しない災害をもたらしている。

日本では将来にわたる環境破壊が危惧(きぐ)された例として、天竜川水系のダムや、長良川河口堰があり、地元住民をはじめ、多くの自然保護団体や学識者が反対した。現在、中国が長江(揚子江)に世界最大の三峡ダムを建設しており、2003年から一部の稼働を開始、09年から全面稼働を予定している。ダム建設にともない120万人以上というかつてない大規模な住民の移住がおこなわれ、水質汚染やヨウスコウカワイルカ(カワイルカ)など固有種の絶滅の危機といった環境問題や事業の採算性などの問題が国内外から指摘された。

XIV

ダム建設のエピソード

戦前、小河内ダム建設のため、水没する村落をおわれた村民は、三多摩地域に代替地をあたえられてもなかなか順応できず、戦後も窮乏や流転をくりかえした。そんな悲劇を1937年当時、作家石川達三は「日陰の村」という小説にえがいた。同じころ、人気歌手の東海林太郎が哀調をおびたメロディにのせて、「夕日は赤し、身は悲し、涙は熱くほおぬらす、さらば湖底のわが村よ(下略)」とうたった「湖底の故郷」は、大人気であった。

戦後の経済復興の象徴として、日本じゅうが注目した佐久間ダムの完成をはじめ、黒部第4ダムや奥只見ダムの建設は、ともに巨大ダムで難工事となり、いろいろな話題をまいた。黒部第4ダムは、石原裕次郎制作主演の映画「黒部の太陽」で一躍有名になった。人跡未踏の秘境黒部峡谷に、世界屈指の大アーチダムを建設した関西電力は、社運をかけたといわれるが、成功の秘訣(ひけつ)は、徹底的に岩盤を調査したことと、その性状に即して忠実に設計したことにあった。

1991年(平成3年)に完成した北海道の美利河(ぴりか)ダムは、重力式コンクリートダムとロックフィルダムのコンバイン(複合)ダムである。堤頂長1480mは複合ダムとしては日本一の長さをほこるが、それも徹底した地盤調査のたまものであったという。

長良川の河口堰の場合は、環境破壊が問題となった。この水系の水害は古くから知られ、木曽川揖斐川とともに木曽三川(きそさんせん)とよばれるこれらの河川の治水事業は困難であった。江戸中期には幕府の命令で薩摩藩が大規模な治水工事をおこなったが、多数の藩士が犠牲となった。1年半をかけて1755年(宝暦5年)に工事は完成したが、総奉行が引責自刃(じじん)している(宝暦の治水事件)。現代の長良川の河口堰工事も洪水対策ではあったが、環境破壊を危惧する人々の運動は軽視されることになった。ダムによって、集落が水没し、住居をうしなう人々が、補償をうけつけずに抵抗した例は多いが、結果として完成したダムにより、洪水や水資源確保に貢献した事例もある。

日本におけるダムの多くは公共事業として計画され、いったん計画が決定されると地域住民の声が反映されることは少ない。また、建設予定地の多くは過疎地であることが多いということにも問題がある。こうした中で、ダムのあり方を問う声も徐々に広まっている。「脱ダム宣言」をおこない県議会と正面衝突し、結果として2002年(平成14年)に再選された田中康夫長野県知事の例もあった。同年に熊本県知事は、球磨川の荒瀬ダムを水利権が失効する10年をめどに完全撤去することを表明。既存のダムとしてははじめての撤去表明となった。国土交通省近畿地方整備局も淀川水系のダムの見直しを表明しており、ダム先進国であるアメリカでも1990年代半ばには政府高官が「巨大ダム建設の時代はおわった」と言明。2008年には熊本県知事が、ダム計画発表から42年もたつ球磨川支流の川辺川ダム(熊本県相良村)建設計画の白紙撤回を表明している。

XV

民主党政権ですすむダム建設見直し

2009年9月には、無駄なダム建設の中止をマニフェスト(政権公約)にのせた民主党が自民党にかわって政権につき、国土交通大臣が川辺川ダムや、1960年代にダム計画が具体化した群馬県の八ッ場(やんば)ダムの建設中止を表明した。さらに翌10月には国と独立行政法人水資源機構がすすめる国直轄56ダム事業のうち、川辺川ダムや八ッ場ダムをふくむ48ダムについて、2009年度内は事業を一時凍結することを表明した。

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