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外部からの攻撃や侵入に対して内部の安全を維持すること。一般的には、外国からの武力による威嚇や攻撃から、国家の領土的一体性を保全し、政治的独立を維持し、国民の生命・財産の安全を確保することを意味する。国内における治安の維持、犯罪や災害から個人や法人をまもることに対応する。
伝統的に、国家の安全保障は主として軍事力にもとめられた。各国とも自国の安全保障をはかるには、抑止(deterrence)と防衛(defence)というわかちがたくむすびついた2つの機能をくみあわせて戦略をたてる。抑止とは、攻撃によってえられる利益よりも、反撃によってこうむる損害のほうが大きいことを相手に理解させて、攻撃を思いとどまらせることである。防衛とは、抑止が機能せず、戦争がはじまった場合に、反撃によって自国のまもるべき価値の被害を最小に食いとめることである。 抑止の基礎となる軍事力は、自国の軍備の増強か、あるいは他国との同盟による強化にもとめられた。そこで体系的にはたらいた力学は、勢力均衡政策(バランス・オブ・パワー:balance of power)が主であった。勢力均衡の原理を単純化すると、対立する2国間あるいは多国間で力をひとしくたもつ、つまりパワーのバランスをとれば、どちらが手をだしても勝つ見込みがないので、にらみあったままどちらも戦争を開始しないという仕組みであった。もちろんその背後には、システム全体の生き残りという共通の利益があった。勢力均衡が国際関係を支配したのは、ウェストファリア条約締結(1648)から第1次世界大戦までの約300年間弱だとされている。しかし、力と力による相互抑止という考え方そのものは、核時代の今日でもなお根強く追求されている。 勢力均衡政策は、合理的で平和をたもつのに有効な政策だと思われがちだが、じつは、きわめて非合理的な面も多く不安定な政策である。大きな欠点だけでも、次の3点があげられる。第1に、自然にえられる安定した状態ではないということである。均衡をきずくこと自体人為的要素が大きく、恒久性がないために、つねに戦争と紙一重の状態にある。そのような状態で各国に軍備に禁欲的であれとするのは、困難である。均衡がやぶれそうな場合には、かつて19世紀末にイギリスがはたしたような、意図的なバランサーを必要とする。さらに、もともと勢力均衡の基礎となる同盟関係があてにならない点も不安定さを助長する。 第2に、勢力均衡の勢力とは何か、均衡させるべき力の定義がない。比喩的にいえば、国家を単位にして重さをはかり、バランスをとるのだが、厳密な計量の単位が何か、力の尺度がないのである。要素としてはGNP(国民総生産)、人口、兵力、装備、軍事費、貿易量などがあげられるが、決め手はない。しかも、兵士の士気や練度など計量不能なものもある。力は、さまざまな要素の集約的総合であり、ひとつの不可分な全体をさす。構成要素を列挙して合計されるものではない。そのうえ、つねに変化しており、明快につかむのはますます不可能に近い。 したがって、力の計測は、心理的要素・感情的要素が強く、あいまいさがつきまとう。そしてそれは、軍備の強化一辺倒に口実をあたえる。相手の軍事力が強いとか弱いとかがきわめて主観的に決定され、均衡をたもつという目的で軍備をつみ重ねるのである。安心するまで軍備をととのえようとすれば、際限のない軍備拡張競争におちいる。冷戦期の米ソの軍拡競争がその典型である。軍備をふやすほど、逆に不安が増大することになる。 第3に、勢力均衡はもともと大国中心の政策で、小国の生き残り戦略とはなりえない。18世紀末以降たびたびみられたポーランド分割などのように、小国は大国の勢力均衡の犠牲になって、国家を喪失してしまうことすらある。同様なことは、植民地主義の時代にもあった。ある国がある地域を植民地化すると、バランスをとるために、他の国も同等の植民地を必要としたのである。 こうした点からいえることは、勢力均衡政策をとったとしても、恒久的な平和をたもつことは至難の業であるし、かりに一定期間たもてたとしても際限のない軍備拡張競争がつきまとう、ということである。どこか一国でも軍備拡張をすれば、均衡をとるためには、全構成員が軍備拡張しなければならない。ある実証的研究では、過去150年間をみてみると、勢力均衡政策をとった場合、半数以上が戦争にいたったという結果をえた。このように不安定で、実効性もさだかでない勢力均衡政策が長い間採用されてきたのは、一見単純で理解されやすく、実行しやすそうに思われるという点にある。
これに対して、第1次世界大戦という未曽有の戦禍を目の当たりにした世界は、平和を維持する仕組みとして勢力均衡にかわる集団安全保障政策(collective security)を追求しはじめた。集団安全保障政策とは、普遍的な条約を締結したり、国際機構を設置したりして、加盟国間の侵略や武力を行使しないことを前提として、平和をたもつ政策である。 たとえば今、世界が10カ国からなり、そのすべてが集団安全保障条約に加入したとする。そこで、ある国Xが、条約に違反して隣国Yに侵入した。この場合、勢力均衡政策では、Yに同盟国があればそれがYをたすけ、Xの同盟国もXをたすけ、大戦争に発展する。集団安全保障では、XY以外の残り8カ国すべてが、Yを支援して条約をやぶったXにあたる。集団安全保障のもとでは、世界すべてを相手にする覚悟と、それでも勝てるという目算とがないかぎり手をだせない。それによって、戦争をふせごうという考え方である。勢力均衡政策よりは、軍拡競争の罠(わな)からのがれやすいし、より安定的な世界が期待できる。 第1次世界大戦後の国際連盟、第2次世界大戦後の国際連合(国連)が設立された当初の理念も、集団安全保障政策にあった。しかし、この理念は有効に実現されたとはいいがたい。国際連盟の存在下で、第1次世界大戦よりはるかに大規模な第2次世界大戦がおきたし、それ以後も、国連の存在下で、毎日世界のどこかで戦争がおこなわれているというのが現実なのである。 国際連盟の場合、当初は米ソの大国が不参加で普遍性を欠いたのがうまく機能しなかった原因のひとつだといわれた。しかし国際連合の場合は、今や未加盟なのは太平洋のいくつかの国ぐらいで、普遍性はみたされた。それにもかかわらず戦争をふせげない原因として、次の2点があげられている。 第1に、憲章上、地域的集団安全保障をもみとめたために、実質的には米ソを中心とする勢力均衡政策に回帰した点である。かつて国際連盟下では、1925年にむすばれたロカルノ条約が地域的安全保障体制として、国際連盟の集団安全保障体制を一時期ささえる役割をした。しかし、国連下でのNATO(北大西洋条約機構)とWTO(ワルシャワ条約機構)の2大地域集団安保機構は、東西両陣営に属する国々によって国連よりも重視され、かえって対立を深めた。これにくわえて、東南アジア集団防衛条約機構(SEATO)、中央条約機構(CENTO)などの地域的相互援助条約体制、日米安全保障条約、米韓相互防衛条約、ソ朝相互援助条約、中朝相互援助条約などの2国間条約がむすばれ、それぞれが両機構をささえる役割をになった。 東西対立・冷戦とは、まさにこの地域集団安保機構が、戦争をせずに、空前の軍事力をたくわえ、緊張関係のもとに対峙する姿をさした言葉である。直接両陣営がかかわらない紛争がおこっても、条約に違反して戦争をしかけた侵略者がどの国かを国連の場で公正に認定するのは、この両陣営の利害がからむかぎりは困難になってしまったのである。 第2に、当初予定された集団安保機構の中心となる軍隊、すなわち国連軍の設置に失敗したために、侵略や紛争に有効に対処できないという点が指摘される。国連軍とは、国連が平和の破壊者や侵略者に対して強制的措置をとるときにもちいられる超国家的軍隊である。憲章上は、常備軍ではなく、加盟国が部隊を提供するという方式で、安全保障理事会の要請でただちに出動する軍隊が予定された。紛争のつどそれを編成するのではなく、あらかじめ編成計画をきめておくことにしていた。そのため、安保理と加盟国との間で兵力などの提供に関する特別協定をむすぶことになっていた(憲章43条)。 その作業にあたったのは、安保理の下部機関で、常任理事国の参謀総長またはその代理で構成される軍事参謀委員会であった。しかし、この委員会では、大国、とりわけ米ソの意見が対立し、1948年に合意をみずにおわった。それ以来、憲章が想定した集団安全保障のための本来の国連軍は、今日まで設置できずにいる。 国によっては、国連の決定をまたずに、国連待機軍を独自に設置して即応態勢をととのえているところもある。現在のところこうした軍隊は、おもに各地でおこる紛争に対して、紛争を凍結するために対立する当事国の間にはいって双方の兵力を分離する国連緊急軍や、停戦を監視する国連停戦監視団として派遣され、一定の成果をおさめている。いわゆるPKOやPKFである。
勢力均衡政策と集団安全保障政策とをくらべると、前者は、同盟をくんで外敵にあたるという対外的指向性をもつ。後者は、条約に違反する不特定の内部のメンバーに残りのメンバーすべてがあたるという対内的指向性を有する。どちらの政策を選択しても、力による力のコントロールという基本的発想に変化はない。いったい現代の国際社会で、どこまでこの伝統的な考え方が有効だろうか。力の支配は力によってくずされるというのが、むしろ歴史の教訓ではなかろうか。 暗黙の力による力のコントロールではなく、相対立する陣営が相互に一定の信頼を醸成して安定をたもつ、という試みが実行されはじめたのも当然といえよう。全欧信頼醸成・安全保障会議(CSBM:Conference on Confidence and Security-Building Measures)がその典型である。これは、ほぼヨーロッパ全域にわたる32カ国とアメリカとカナダ両国の計34カ国が参加して「大西洋からウラル山脈まで」の広範囲にわたって、軍事行動の制限、軍事演習や軍隊移動の事前通告などを課すことによって、意思疎通や軍事的透明性を増大させ、軍事衝突を回避することを目的としたものであった。冷戦の終焉(しゅうえん)によって交渉は加速され、1991年3月「ウィーン文書1992」が採択され、同年5月1日に発効した。軍事力の制限を目的としたヨーロッパ通常戦力交渉(CFE)とワンセットになっているところに特徴があった。 近年、国際社会ではますます相互依存性が増大している。そこから安全保障も、軍事面にばかりたよるのではなく、他の分野も動員しなければならないという認識が深まっている。と同時に、非軍事的脅威にも安全保障を拡大しなければならないという反応もあらわれている。後者については、エネルギー、食糧をふくむ総合安全保障政策として日本でも1980年代からさまざまな提言がなされている。
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