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  • ダ・ヴィンチ,レオナルド - ダヴィンチの工房

    レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)(下) 杉浦明平訳 岩波文庫 「美術家列伝II] ドナテッロ,レオナルド・ダ・ヴィンチ ジョルジョ・ヴァザーリ 亀崎勝訳注 大学書林

  • レオナルド・ダ・ヴィンチ - Wikipedia

    『レオナルド・ダ・ヴィンチという神話』片桐頼継、角川選書、2003年 ISBN 4-04-703359-6 万能の天才という手放しのレオナルド礼賛に疑問を呈し、特に「発明」なるものの多くが実用にはほど遠く、また他人のアイディアも含まれると指摘している。

  • JAL国際線 - レオナルド・ダ・ビンチ(フィウミチーノ)国際空港 ...

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レオナルド・ダ・ビンチ

レオナルド・ダ・ビンチ Leonardo da Vinci
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

1452~1519 「モナ・リザ」の絵で知られる盛期ルネサンスを代表する芸術家・科学者。絵画、彫刻からスタートし、建築、技術、科学、哲学など多彩な分野での研究をのこし、「万能の人」の最高の典型といわれている。完成した作品は少なく、寡作家だったが、膨大な量の素描と手稿がのこされている。

II

フィレンツェでの修業時代

フィレンツェ近郊のビンチ村で、裕福な公証人と小作農家の女性との婚外の子として生まれる。1460年代半ばに一家がフィレンツェに移住し、レオナルドは芸術の中心地で最良の教育をあたえられた。早熟で顔だちがよく堂々としていて、弁論の才能にめぐまれ、すぐれた音楽家・作曲家でもあった。66年ごろに、当時の美術界をリードするベロッキオに弟子入りし、絵画、彫刻、建築など、多方面にわたってまなんだ。72年に画家組合に加入するが、ひきつづいてベロッキオの助手をつとめた。「キリストの洗礼」(1470?)では、画面の左にひざまずく天使をえがいている。

1478年に独立して、最初にフィレンツェ政庁パラッツォ・ベッキオ内礼拝堂の祭壇画を注文されたが、未完におわった。81年には、フィレンツェのサン・ドナート・ア・スコペート修道院から「東方三博士の礼拝」を依頼されたが、未完成のままのこされている。そのほか初期の作品には、「ブノワの聖母」(1478)、「ジネブラ・デ・ベンチ」(1474?)、そして未完成の「聖ヒエロニムス」(1481?)などがある。

III

ミラノ時代

1482年ごろ、ミラノ公ルドビコ・スフォルツァの宮廷画家となる。このときレオナルドは公爵に自薦状を書き、自分は携帯可能な橋、爆弾や大砲、船、装甲車、投石器といった兵器をつくることができ、平和なときには大理石、青銅、粘土で彫刻を制作することができると述べている。スフォルツァ公の軍事技師をつとめ、建築家としてもつかえた。数学者ルカ・パチョーリの名著「神的比例論」(1509)の手助けもしている。

ミラノでは、弟子たちのために種々の教則本を書いている。そのひとつが「絵画論」として没後の1651年にまとめられた。ミラノには17年間滞在したが、この時代を代表する絵画作品は、2点の「岩窟の聖母」(1483~85、1490年代~1506/08)とサンタ・マリア・デレ・グラーツィエ修道院食堂の壁画「最後の晩餐」(1495~97)である。

「最後の晩餐」では、実験的にかわいた漆喰(しっくい)の上に油絵具を使用したが、技術が適切でなかったため、1500年ごろには悪化がはじまっている。1726年以降、修復作業がこころみられたが成功しなかった。1977年に最新技術が導入され、損傷はいくらか回復した。オリジナルの絵肌は大部分がうしなわれたが、雄大な構図とするどい人物描写をうかがい知ることができる。

ミラノでの長い滞在の間に、レオナルドは絵画のほかにも、舞台美術、建築、ミラノ大聖堂のドームの模型なども手がけた。最大の仕事は、ミラノ公の父フランチェスコ・スフォルツァを記念する巨大な青銅騎馬像をスフォルツァ城の中庭につくることだった。しかし原型までは完成したものの、1499年12月フランス軍の侵攻によってスフォルツァ家がミラノを追われたため、レオナルドは騎馬像を未完成のままのこしてフィレンツェにかえった。騎馬像の素焼き模型は、フランス兵たちによって弓の的にされ、破壊されてしまった。その姿は、のこされた準備のための素描からうかがい知るしかない。

IV

フィレンツェに帰還

1502年、ロマーニャ地方の公爵チェーザレ・ボルジアにつかえ、主任建築家・軍事技師として、中部イタリアで教皇領の要塞建設の監督をつとめた。03年にはミケランジェロが制作した彫刻「ダビデ」(1501~04)の設置委員会のメンバーとなっている。また、パラッツォ・ベッキオの大広間のミケランジェロとの競作壁画の制作に着手した。主題はピサとの戦いでフィレンツェが勝利した「アンギアリの戦」で、レオナルドは数多くの素描を用意し、05年にはカルトン(実寸大の下絵)を用意したが、壁画は完成されなかった。その後カルトンもなくなり、習作素描とフランドルの画家ルーベンスによる模写(1615?)によって構想がつたわるだけである。

この2度目のフィレンツェ時代に肖像画を何枚かえがいたが、現存するのは「モナ・リザ」(1503~06)だけである。のちにバザーリによってモデルとされた女性の夫の姓にちなんで「ジョコンダ」ともよばれるが、モデルには諸説がある。美術史上最高の肖像画の1枚ともされるが、レオナルドは、この絵に特別の愛情をいだいていたらしく、旅をするたびに身の回り品といっしょにもちはこんでいる。

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