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中世に首都をコンスタンティノープル(現トルコ、イスタンブール)においたローマ帝国の通称で、395年にローマ帝国が東西に分裂し、ついで5世紀に西ローマ帝国がほろんだのちも存続しつづけた。東ローマ帝国ともよばれる。コンスタンティノープルは、330年に、ローマ帝国で最初のキリスト教徒の皇帝コンスタンティヌス大帝がビザンティウムの町を復興、彼自身の名を都市名にしたのち首都となった。 帝国の領土は6世紀中ごろに最大となり、バルカン半島、シリア、ヨルダン、イスラエル、レバノン、キプロス、トルコ、エジプト、さらにリビアの東半分をふくんでいた。支配的言語はギリシャ語だったが、ラテン語、コプト語、シリア語、アルメニア語等々の地域的言語をはなす人々をかかえる多民族国家であった。 ビザンティン帝国の皇帝はかつてのローマ帝国の領土を自分たちのものとみなし、その伝統、象徴およびさまざまな制度も淵源(えんげん)はローマにあると考えていた。帝国にはいかなる基本法もなく皇帝(バシレウス)に統治されていたが、しだいに後期ローマの諸制度と正教会(オーソドックス)キリスト教(→ 東方正教会)、またギリシャ語およびギリシャ文化を総合するようになった。
コンスタンティヌス大帝(在位310~337)は、教会と皇帝権力との調和をたもつ先例をつくりあげ、それは帝国の全史を通じて生きつづけた。たとえば彼はソリドゥス金貨、すなわちノミスマにもとづく新貨幣制度をさだめて効果をあげ、それは11世紀半ばまで国際通貨として存続した。4世紀から6世紀までつづいた商業の繁栄は多くの古代都市に活気をもたらした。農業では大領地が支配的であり、重税によって多くの土地が放棄されはしたものの、生産力をたもちつづけた。いっぽう、教会は広大な領地を獲得し、帝国の歴史のほとんどの時代を通じて、皇帝自身とならぶ最大の土地所有者であった。皇帝は商業と手工業の団体についてばかりでなく、貴金属の品質と供給についてもきびしく規制し、それが経済生活の特徴をなしていた。 ユスティニアヌス1世(在位527~565)と妃テオドラはローマ帝国がかつて有していた西半分の国土を復活させようとした。そして、多大な犠牲をはらったすえ、534~565年の間に、北アフリカ、イタリア、シチリア、サルデーニャ、それにイベリア半島の一部をとりかえした。また「ローマ法大全」の編纂や歴史学の隆盛にも意をつくした。しかしこのような努力は、公共建造物と教会(とりわけコンスタンティノープルのハギア・ソフィア)の建立に要した莫大な出費とあいまって、国力を疲弊させ、しかもその間に疫病が蔓延(まんえん)して、人口も減少した。
5・6世紀には帝国はゲルマン人やフン族の移動と侵入の脅威をしりぞけ、ササン朝ペルシャに対して東部国境をまもることに成功したが、地中海世界全体を回復するにはいたらなかった。6世紀後半には、トルコ系のアバール人の騎馬軍が侵入してバルカン半島のビザンティン領土の人口が減少したが、以前ビザンティン領土だったイタリアへもランゴバルド人が侵入し、ローマ、ラベンナ、ナポリとそれ以南をのぞく多くの地域が次々に占領されていった。 7世紀になると、帝国の領土と文化は大きく変化した。バルカンの大部分はアバール人とスラブ人にうばわれた。マウリキオス(在位582~602)の暗殺後、帝国内外で戦争が勃発(ぼっぱつ)した。ヘラクレイオス帝(在位610~641)は628年の決定的な勝利によって、長くつづいたペルシャとの戦争に終止符をうち、ペルシャが占領していたシリア、パレスティナ、エジプトをとりかえした。 しかし634~642年には、新興のイスラム教によってたちあがったアラブ人が、パレスティナ、シリア、メソポタミア、エジプトをせめおとした。コンスタンティノープルは670年代と717~718年にアラブ軍の大包囲戦にたえ、小アジアのビザンティン領土もほとんど毎年のようにアラブ軍の襲撃をたえしのんだ。 ビザンティン帝国はその軍隊を、タグマ(複数はタグマタ)とよばれる精鋭の遠征軍と、テマ(複数はテマタ)とよばれる軍団(軍管区)に改編した。各軍団の指揮はストラテゴスとよばれる司令官がとったが、彼には駐屯地域の軍民両政を統轄する権限をあたえられていた。こうしてテマの軍隊は軍管区を意味するようになり、またテマの兵士たちは免税地をあたえられて帝国の中核の役割をはたし、かつアラブ侵入前にみられたような、傭兵にたよって破滅的な貨幣の流出をまねくという危険をさけることができた。都市生活と商業はテッサロニキとコンスタンティノープル以外では衰退し、戦争は農業などの発展をさまたげた。
9世紀以降ビザンティン帝国はめだって回復しはじめるが、それはいくつかの形をとってあらわれた。イスラム勢力をまとめていたカリフの力が弱体化し、またビザンティン軍の戦略が功を奏したこともあって、東部国境でイスラム軍の攻勢が停止した。ビザンティン帝国は10世紀初めには小アジアの南東部を回復しはじめた。ギリシャ、マケドニア、トラキアの、スラブ人にうばわれていた諸地方も再び征服し、改造された。回復がもっともすすんだのは長期にわたるマケドニア朝の時代で、マケドニア朝は867年、創設者のバシレイオス1世にはじまり、1081年までつづいた。 多くの分野で知的生活がよみがえり、古代の写本の書き写しや要約、百科事典その他の参考図書の編纂がおこなわれ、また数学、天文学、文学が新たに注目された。学術の復興にともない、芸術と文学においては、古典古代のモデルへ意識的にかえろうとする試みがなされた。地中海と黒海での外国貿易も活発になった。 7世紀半ば以降南下をつづけ、681年にはバルカン半島中部の帝国領内に独立国家をきずき、帝国を大いにくるしめたブルガリア人もやがて衰退し、970年代にはビザンティン軍に占領された。ビザンティンの軍隊は、さらにイスラムから、北メソポタミア、北シリア、北シリア沿岸部をふくむタウルス山脈の南東地方を奪還した。ユスティアヌス帝以後最大の領土を獲得したのはマケドニア朝の皇帝バシレイオス2世(在位976~1025)で、その後も長くつづいたブルガリア人の反乱を容赦なく鎮圧し(1014)、アルメニアとグルジアの両公国にまで支配圏を拡大した。 バシレイオス2世の死後、帝国はなお経済的拡張と繁栄を享受したが、凡庸な皇帝が輩出したために、軍隊は劣悪化し、しかも西ヨーロッパやイスラム世界での技術・文化・経済の革新に目をむけようとはしなかった。セルジューク朝トルコはビザンティン帝国の東方領土を侵略したのち、マンジケルト(現マラーズギルド)の戦(1071)で皇帝軍を撃破し、小アジアのビザンティン領土の大半をうばった。テマの軍隊はすでにその威力をうしない、その間にビザンティンの人々はイタリアにおける彼らの最後の砦(とりで)をノルマン人にうばわれ、また正教会とローマ教会との分裂(1054)によって西方キリスト教世界からも遠ざけられた。
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