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前3世紀の中ごろ、ケルト人の部族のひとつ、パリシイ族がシテ島を要塞(ようさい)にしてすみついた。パリという名称は彼らにちなむ。前52年に一帯は、カエサル指揮下のローマ軍の手におちた。ローマ人はセーヌ川の左岸に町を拡大し、そこに浴場、劇場を建設した。 後3世紀の中ごろ、キリスト教が聖ドニによってもたらされた。聖女ジュヌビエーブは451年アッティラのひきいるフン族が侵入した際、市民にパリを放棄しないようよびかけて、パリの守護聖人となった。
ゲルマン人の侵入により、ローマ人のパリ支配はおわり、508年にフランク族の王クロービスの支配するところとなった。クロービスの継承者たちはパリにはすまなかったが、9世紀のバイキングの侵入以後、カペー朝はパリをフランスの首都とさだめ、都市を再建した。1163年にノートル・ダム大聖堂、1248年にサント・シャペル、1301年に宮殿(今日のコンシェルジュリ)がシテ島に建設され、島はフランスの心臓部となった。 フィリップ2世は1190年に右岸の周囲を城壁でかこみ、1210年には左岸をかこんだ。右岸にはルーブル宮殿が創建された。こうして中世のパリは3つの部分、すなわちシテ島、右岸の市街、左岸の大学からなっていた。国王の任命するパリ奉行がパリを統治したが、商人の代表が市庁舎を活動の舞台にして、同職ギルドをとりしきり、事実上のパリ市長の地位にあった。 12世紀以降、フランス南西部のアキテーヌ地方はイギリス領となっていた。イギリスからパリをまもるために、シャルル5世(在位1364~80年)は左岸の城壁を修理し、右岸では、現在は環状道路となっている所に新しい城壁を建設した。この城壁のおかげで、パリはルーブル宮殿をこえて西のほうへ拡大し、パリの東側はバスティーユ要塞でまもられることになった。イギリスとの百年戦争の間に、パリの民衆は何度も国王の権力に反抗し、一時はイギリスがパリを支配下においたこともある(1422~39年)。平和と繁栄がもたらされたのは、15世紀後半になってからである。
フランソワ1世(在位1515~47年)はルーブル宮殿を改築し、新しい市庁舎を建築するとき、イタリア・ルネサンス文化を導入した。しかし、カトリックとユグノー派プロテスタント間の宗教戦争がおこり、パリは混乱におちいった。フランソワ1世の息子の妃(きさき)となったカトリーヌ・ド・メディシスは、1572年にサン・バルテルミの虐殺をひきおこして宗教戦争を激化させた。ようやくパリに平和がもどったのは、ブルボン王朝の始祖アンリ4世がパリに入城した94年になってからである。ブルボン王朝はパリに古典様式の建築と絶対主義をもたらした。今日のボージュ広場、シテ島のポン・ヌフ(新橋)、リュクサンブール宮殿などは、ブルボン王朝がパリを新しいローマたらんとした意図をしめしている。ルイ14世は夜間照明をふやし、給水施設を整備し、傷病兵の病院アンバリッドを建設して、都市機能を改善した。ルイ15世は荘厳なコンコルド広場をつくらせた。 パリの民衆は国王に対してたびたび反乱をおこしていた。このためルイ14世はベルサイユに居をうつしている。1789年にはじまるフランス革命では、パリの民衆は先頭にたってバスティーユ要塞を攻撃し、王権を転覆し、第1共和政を樹立した。フランス革命とそれにつづくナポレオンによる帝政のもとで、パリを頂点とする近代中央集権国家が確立する。 19世紀の間、パリはいくたびとなく革命の中心となった。現在、パリ市の周縁をなす環状大通りとなっている新しい城壁が1844年に建設された。ナポレオン3世の命をうけたセーヌ県知事オスマンは、52年パリの改造に着手した。ブーローニュの森やバンセンヌの森を公園として整備し、まがりくねった街路をとりこわして幅の広い大通りにつくりかえ、広場によってそれらを連結し、ほぼ今日のパリの街路をつくりあげた。セーヌ川の左右に大下水道を建設し、パリの汚水はセーヌ川の下流で放水されるようになった。オペラ座がこの時期の建築様式をしめしている。 1870~71年のプロイセン・フランス戦争とパリ・コミューンによって、パリの改造は中断された。パリ・コミューンの最後の戦闘はペール・ラシェーズ墓地を戦場にしておこなわれ、2万人のパリ市民が犠牲となった。この内戦で、フランソワ1世時代の市庁舎やカトリーヌ・ド・メディシスによってたてられたチュイルリー宮殿が焼失した(市庁舎はほどなく再建された)。 戦争と内戦にあれた国民の心をしずめるために、サクレ・クール教会がモンマルトルの丘に建設された。1871年から第1次世界大戦勃発(ぼっぱつ)までの間、パリはかつてない繁栄をむかえ、ベル・エポック(よき時代)とよばれる。74年、パリで第1回展を開いた印象派(→ 印象主義)の画家たちは近代都市化するパリの街角などをこのんで題材にえらんだ。万国博覧会が活気をもたらし、新しい芸術として台頭したポスターが世紀末のパリの華やかな風俗をうつした。この時代の建築物は、アール・ヌーボー調の内装で知られるリヨン駅、アレクサンドル3世橋、地下鉄(メトロ)の駅入り口、エッフェル塔など、鉄と鉄道の時代を象徴している。そして第1次世界大戦後の1920年代のパリには一群の外国人美術家たちがすみついた。彼らはエコール・ド・パリと総称された。
ブーローニュの森とバンセンヌの森は、長い間パリの膨張をくいとめてきた。しかしとくに第2次世界大戦後は、旧市街の人口はむしろ減少傾向をみせている反面、2つの森をこえて巨大な大都市圏が2重3重に形成された。 パリは中世の昔から学問と芸術の都としてヨーロッパ各地から人々をひきつける国際都市だった。また、20世紀のおもな前衛芸術運動や思想の展開される舞台だった。しかし一方で、近年は中東、アフリカ、東ヨーロッパ、アジアからの移民を多くかかえ、社会的緊張も高まっている。そうした緊張にくわえて貧困、失業の不満も若者の間に鬱積(うっせき)し、2005年10月にはパリ郊外で警察におわれていた若者グループが変電所へにげこみ、あやまって2人が感電死した事件をきっかけに、フランス全土で暴動がおきた。
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