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1564~1616 イギリスの劇作家・詩人。今日もなお、史上もっとも偉大な劇作家といえよう。その戯曲は、多様な登場人物たちの描写をとおして、人間を行動にかりたてる根源についての深い見識を呈示している。音声表現と所作の多用によって統一された審美的な効果を生みだす、詩的かつ劇的な手法の採用は、シェークスピアの非凡な功績である。また、個人的、社会的、普遍的な状況での人間の行動の根底的な動機づけを表現するために、劇中で詩を使用したことは、文学史におけるもっとも偉大な業績とされている。
シェークスピアの生涯については、信頼できる完全な資料がのこっていないため、断片的な事実を多くの推測でつなぐしかない。一般的に彼は1564年に生まれたとされており、ウォリックシャーのストラトフォード(ストラトフォードアポンエイボン)で洗礼をうけたことがわかっている。地元のグラマー・スクールでまなんだと思われる。8人兄弟の3番目ながら長男のシェークスピアは、当然、家業をつぐために父親の店で仕事をならい、はたらいているはずなのだが、一説では、父親の商売がかたむいたため肉屋に奉公にだされたという。また、校長になったという説もある。 1582年、農家の娘アン・ハサウェーと結婚した。地方判事のトマス・ルーシー卿の鹿園で密猟しているところをつかまったあと、ストラトフォードをはなれたらしい。83年、アン・ハサウェーとのあいだに娘をもうけ、85年には男児と女児の双子が生まれたが、男の子は死亡した。
ロンドンで生活するようになったのは1588年ごろらしい。92年には、すでに俳優と劇作家としての成功を手にしており、ほどなくして3代目サウサンプトン伯ライアススリーの後援をうけるようになった。 当世風にエロティックな2編の物語詩「ビーナスとアドニス」(1593)と「ルークリース凌辱」(1594)の出版により、シェークスピアは、ルネサンスの才能ある人気詩人としての名声を確立した。また、このころ書いたとされる「ソネット集」は、長いあいだ、原稿のままで回覧され、1609年になって出版された。この「ソネット集」の主人公は、シェークスピア自身らしき詩人である。美貌(びぼう)と徳目をあわせもつ青年貴族に献身しながら、神秘的で不実な女性「ダーク・レディ」に心をうばわれる様や、詩人の友人が「ダーク・レディ」に魅了されたことから生じる三角関係が、情熱的な激しさと深い心理的洞察をもってえがかれている。 しかし、現代でのシェークスピアの評価は、これらの詩の作者としてではなく、明らかに彼が書き、手をいれ、または共同執筆した、三十数編の戯曲にもとづいている。これらの戯曲は、当時、一般的な人気は高かったにもかかわらず、同時代の知識人たちから高く評価されることはあまりなかった。彼らは、当時の演劇を低俗な娯楽とみなしていたのである。
シェークスピアは、仕事面で経済的に有利な契約を多数かわしており、彼の所属する宮内大臣一座(のちに国王一座と改称)と、そこが所有する劇場グローブ座とブラックフライヤーズ座の収益の分配をうけることができた。 彼の劇は、ほかのどの劇作家の作品よりも頻繁に、女王エリザベス1世と国王ジェームズ1世の宮廷で上演された。一度だけ王室の愛顧をうしないかけたのは、1599年に彼の一座が、反女王一派の陰謀による注文で「国王リチャード2世を退位させて殺害する芝居」(「リチャード2世」)を上演したときだった。その後、シェークスピアの一座は陰謀に無関係と判明して、無罪となった。 1608年以降、シェークスピアの芝居の上演は減っている。彼は、地元の名士となっていた郷里ストラトフォードに、「ニュープレース」とよばれる屋敷を購入して家庭をきずいていたが、この時期からは、この地で多くの時間をすごすようになった。16年、同地で死去し、ホーリー・トリニティ教会に埋葬された。
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