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古代ギリシャ語のsyn(ともに)とphōnē(音)を語源とし、「ともに鳴りひびく」の意。一般的に、対比的な4つの部分、あるいは4楽章で構成されるオーケストラ作品。この用語は16世紀に初めてもちいられ、カンタータ、オペラ、オラトリオなどで演奏される器楽の間奏曲をさした。この概念に属する例に、ヘンデルの「メサイア」(1742)にふくまれる「田園交響曲」がある。現在のような意味の交響曲は、18世紀初頭に誕生した。
1700年ごろ、イタリア・オペラの序曲(シンフォニア)が急-緩-急の3楽章の構成におちつく。当時の終楽章は多くがメヌエットであった。こうした序曲はオペラ本体との音楽的なつながりをほとんどもたず、しばしば演奏会でも単独の作品として演奏された。アルビノーニ、サンマルティーニ、ビバルディといったイタリアの作曲家たちは、やがて同様の3楽章構成をもちいて、独立したシンフォニアを書きはじめる。 まもなく第1楽章にソナタ形式がつかわれるようになり、ほかの楽章でもしばしばこの形式がもちいられたため、ソナタ形式の確立に貢献した作曲家が交響曲の発展にも力をかした。また、ナポリのインテルメッツォ(オペラの幕間に上演された短いコミック・オペラ)も大きな影響をあたえた。インテルメッツォでは、歌詞をききとりやすくするために、それ以前の音楽にみられた複雑な旋律や、ぶあつい和声の伴奏をしりぞけ、短く明快な動機をくみあわせた旋律と、簡潔な和声がもちいられた。こうした展開のもとで、作曲家たちはソナタ形式の大枠をまもりながら、素材をさまざまにくみあわせたり、いろいろな和声をつけるようになる。
1740年ごろまでに、交響曲はオーケストラのための最大のジャンルとなり、ドイツのマンハイムとベルリン、オーストリアのウィーンを中心に創作がおこなわれた。ボヘミアの作曲家ヨハン・シュターミツは、マンハイムのオーケストラの水準を高め、国際的に名声のとどろく楽団にそだてるとともに、その能力を最大限に活用する交響曲を書いた。シュターミツは、4楽章構成の交響曲を作曲した初期の作曲家のひとりで、メヌエット楽章の次に速いテンポの終楽章をおいた。ソナタ形式の楽章では、第1主題と第2主題がするどく対比させられている。 ベルリンでは、グラウンやカール・フィリップ・エマニュエル・バッハ(バッハの息子)が3楽章構成の交響曲を書いた。彼らの作品は、主題間のコントラストに欠けるが、主題の巧みな展開と豊かな感情表現を特徴とする。 ウィーンでは4楽章構成が主流となり、第1楽章がとくに入念につくられた。ウィーンの交響曲には管楽器が積極的にとりいれられ、曲全体の旋律を統合する試みもなされた。たとえば、第1主題から第2主題へ移行する推移部に、第1主題の断片が利用され、旋律素材の統一がはかられた。ウィーンの初期(前古典派)の交響曲作曲家には、モンやワーゲンザイルがいる。バッハのもうひとりの息子、ヨハン・クリスティアン・バッハも主要な交響曲作曲家である。イタリアでまなび、ロンドンで活動した彼の交響曲には、イタリア風の優美なメロディがみちあふれている。
ウィーン史上で最初の交響曲の大家は、地元オーストリアの作曲家ハイドンであり、オーケストラ作品に、たえず新しい技法と趣向を導入しようと努力をつづけた。交響曲の数は106曲にのぼり、これらを通じて交響曲形式を長大化させた。 ハイドンの交響曲は、第1楽章の冒頭にしばしばテンポのおそい序奏がおかれ、ソナタ楽章では対比的な複数の主題をもちいるよりも、1つの主題を展開させていることが多い。終楽章はソナタ形式かロンド形式をとり、それまでの作曲家の作品にはないほどの活力と重量感をもつ。また対位法(複数の旋律線の絡み合い)を交響曲の様式にとりいれ、盛んに活用した。終楽章で楽員が1人ずつステージからきえていく趣向の交響曲第45番「告別」(1772)のように、奇抜なアイデアの作品でも、上記のような性格はかわらない。 ハイドンと年下の友人モーツァルトは、互いの交響曲の技法にかなりの影響をあたえあった。音楽史上屈指の交響曲の巨匠であるモーツァルトは、41曲の交響曲に抜群の想像力を発揮している。晩年の3大交響曲、第39番変ホ短調、第40番ト短調、第41番「ジュピター」(3曲とも1788)は、交響曲を単なる娯楽音楽の領域から心の奥底を表現する芸術作品へとひきあげた。このほか、第35番「ハフナー」(1782)、第36番「リンツ」(1783)、第38番「プラハ」(1786)などが有名である。
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