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1919年以降、アインシュタインは国際的に有名になる。1921年、光電効果の法則の発見をはじめとする理論物理学の業績に対してノーベル物理学賞が授与された。ほかにも、各国の科学界からさまざまな賞や名誉がおくられた。世界のどんな地域でも、アインシュタインの訪問は国をあげてむかえる行事になり、写真家や記者がどこへでも彼についていった。22年11月には来日し、日本各地をおとずれている。国際的名声のために私生活を保てなくなることを惜しむ一方で、名声をもちいてみずからの政治的、社会的な信条をおしすすめた。彼が全面的に支援した2つの社会的な運動は、平和主義とシオニズム(ユダヤ人国家建設運動)の運動である。第1次世界大戦中、彼はドイツの戦争へのかかわりを公然と非難したが、研究者でこの行動をとった人はごく少なかった。戦争後も、平和主義者とシオニストの目標をささえつづけたことで、ドイツ国内の反ユダヤ主義者や右派による悪意をこめた攻撃の的となった。彼の科学理論、とくに相対性理論はえせ科学だと難癖をつけられた。 ヒトラーが政権をとったとき、アインシュタインはすぐにドイツを去りアメリカにいくことを決意する。1933年、プリンストン高等研究所の終身所員としてまねかれた。世界のシオニズムのために努力をつづける一方で、彼は、ナチスがひきおこした人類へのおそろしい行為に直面して、以前の平和主義的な立場をすてた。39年、アインシュタインはハンガリーからの亡命科学者シラード、テラー、ウィグナーら数人の物理学者と共同で、ドイツの原爆製造への危険性とアメリカに原爆研究をすすめる手紙をフランクリン・ルーズベルト大統領にだした。その手紙にアインシュタインは署名をしただけだったが、それによってアメリカの原爆製造計画が急速に進展することになる。しかし、彼自身は原爆製造になんの役割も演じなかったし、その当時は、アメリカが製造に着手したことすら知らなかった。 第2次世界大戦後、アインシュタインは戦争をおこさないため、軍縮および世界連邦樹立をめざし、各国の政府にたえずはたらきかけた。シオニズムの運動も支援していたので、イスラエルの大統領就任をもとめる申し入れがあったが、それは辞退した。40年代後半から50年代初頭にかけて、彼はどんな犠牲をはらっても一国の知識人の政治的自由を確保することが必要であることを堂々とのべた。とくに死の直前に、アインシュタインがイギリスの哲学者ラッセルとともに発表した核兵器廃絶と戦争廃止のための平和声明(ラッセル=アインシュタイン宣言)は、各国の著名な科学者11名の署名があり、やがて各国の科学者が戦争回避のために意見を交換するパグウォッシュ会議をつくるもとになった。1955年4月18日、プリンストンでその生涯をとじた。 世界連邦など、アインシュタインの国際社会の理想に対する努力は、ときに現実的でないとみられていたが、実際は、彼の主張はいつも慎重に考えぬかれていた。それは科学理論のように証明と観察の、するどく注意深い評価にもとづく確かな直観によって動機づけられていた。アインシュタインは政治的、社会的な理想をねがって熱心に活動したが、いちばんうちこんでいたのは物理学だった。彼はいっていた、「宇宙の真理の発見だけが永遠の意味をもつのだ」と。宇宙(自然)に対する人類の理解はアインシュタインによるところがあまりに大きく、彼は今でも科学の巨人でありつづけている。 著書には、「特殊および一般相対性理論」(1916)、「シオニズムについて」(1931)、「宇宙の建設者」(1932)、オーストリアの精神分析の創始者フロイトとの共著「なぜ戦争か」(1933)、「私が見た戦争」(1934)、ポーランドの物理学者インフェルトとの共著「物理学はいかに創られたか」(1938)、「晩年に想う」(1950)などがある。
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