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項目構成
フィレンツェにはイタリア最高の図書館のひとつ、国立中央図書館がある。この図書館はおよそ400万冊の本や論文と、何千部もの写本、地図、書簡を所蔵している。そのほかミケランジェロの設計になるラウレンツィアーナ図書館には、メディチ家のコジモ、ピエロ、ロレンツォが収集した本や写本のひじょうに貴重なコレクションがある。マルチェリアーナ図書館とリカルディアーナ図書館には、古い書簡や写本、版画が豊富におさめられ、モレニアーナ図書館は地方史の分野でとくに重要である。国立文書館には、フィレンツェとトスカーナの歴史に関する膨大な書類が保管されている。1923年に創立されたフィレンツェ大学は、1321年に認可された教育機関を継承している。また、有名な音楽院と、精巧な地図製作で世界的に知られる軍事地理院もある。
フィレンツェは古くはフロレンティアとよばれ、古代に建設されたが、11世紀まではあまり重要な都市ではなかった。11世紀後半には、貴族と学者で構成され、人民の名のもとに運営される議会が統治する共和制の都市となった。
12世紀にフィレンツェは近郊のフィエゾレを獲得し、アルノ川がうるおす広大で肥沃(ひよく)な平野全域の支配計画に着手した。共和国の内部は、支配権をめぐる有力な一族の抗争で分裂状態にあった。1300年、教皇派(ゲルフ:→ 教皇派と皇帝派)内部がネーリ(黒党)とビアンキ(白党)の2つにわかれ、内乱がはじまった。ダンテは敗北したビアンキの一員だったため、02年フィレンツェから追放された。このような内部抗争にもかかわらず、都市は繁栄していた。 遠隔地との交易にくわえて、製造業、なかでも毛織物業と金融業で、フィレンツェ市民は莫大な富を蓄積した。そのうえ、商人と職人が強力な同業者組合を組織したことで、フィレンツェは予想外に安定していた。もっとも裕福だった毛織物組合は、14世紀の初めに約3万人の労働者をかかえ、200店舗を所有していた。こうして商人と銀行家は市政の指導的な立場にたち、フィレンツェをうつくしい都市にする事業にとりかかった。14~15世紀にはミラノとの戦争をくりかえしたが、1406年にアルノ川下流にあるピサを獲得し、待望の海への出口を手にいれた。
労働者と富裕階級の衝突は、かなり大きくなり、抗争が頂点に達した1433年、銀行家で富裕商人党派のリーダーだったコジモ・デ・メディチは、貴族党派によってフィレンツェから追放された。34年に復帰したコジモは敵対者を追放して下層階級と手をむすび、名目上は一市民でありながら、共和国の真の支配者となった。メディチ家は、つづく3世紀のフィレンツェを支配した。コジモの死後は、その子ピエロと孫のロレンツォがその権力を継承した。 ロレンツォ・イル・マニフィコ(偉大なるロレンツォ)とよばれたロレンツォは、学問と芸術の大保護者で画家のボッティチェリや人文主義者をその周囲にあつめた。ロレンツォは共和国政府を骨抜きにし、その野心的な外交政策で、フィレンツェが一時的にイタリア諸国家間の勢力の均衡をたもたせることになった。フィレンツェのフロリン金貨が、全ヨーロッパの貿易の基準通貨となり、フィレンツェの商業は世界を支配した。建築、絵画、彫刻におけるルネサンス芸術は、15世紀をとおして大きく開花した。 ロレンツォの跡をついだ子のピエロ2世は、1494年にイタリアを侵略したフランスのシャルル8世に屈辱的な譲歩をした。これに憤慨した民衆は、同年、ピエロとその一族をフィレンツェから追放し、共和制をしいた。ピエロ失脚後にフィレンツェの指導者として登場したのは、ドミニコ会サン・マルコ修道院の院長サボナローラだった。しかしロレンツォの宮廷のぜいたくを痛烈に非難していたサボナローラは、教皇をも批判するようになり、少しずつ民衆の支持をうしなっていった。98年、サボナローラは民衆にとらえられ、裁判にかけられたのち処刑された。1512年スペイン軍によって権力の座に復帰したメディチ家は、27年ふたたび追放されたが、31年には復帰し、69年、教皇の手でトスカーナ大公の称号がメディチ家に授与された。
1737年に継承者がとだえ、メディチ家のトスカーナ支配はおわった。トスカーナ大公国はオーストリアのハプスブルク家に継承された。大公フェルディナンド3世は、99年フランスによって退位させられたが、1814年復帰した。49年に追放されたレオポルド2世はオーストリア軍とともに復帰したが、イタリアの独立をもとめる戦いがつづき、59年、退位した。フィレンツェは65年から、ビットリオ・エマヌエレ2世のおさめるイタリア王国の首都となったが、71年首都はローマにうつった。 フィレンツェの記念建築物の大部分は、第2次世界大戦中の被害をまぬがれたが、ポンテ・ベッキオをのぞく橋のすべてが1944年に破壊された。また66年の大洪水でたくさんの芸術財産が被害をうけたが、その多くは精巧な修復技術で数年をかけて復元された。
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