検索
エンカルタ内で検索 : アウシュビッツ

Windows Live® の検索結果

  • アウシュヴィッツ平和博物館Webサイト

    アウシュヴィッツは、 第二次世界大戦時にナチス・ドイツが占領地ポーランドに建設した 最大規模の強制収容所です。 150万人の尊い命が奪われた同収容所跡は、 広島の原爆ドームと同様に 『人類が二度と繰り返してはならない20世紀の負の遺産』として、

  • アウシュビッツ徹底ガイド

    アウシュビッツ徹底ガイド ナチス・ドイツが建設した「死への工場」アウシュビッツ強制収容所。その全容を徹底的に解説します。 目次 はじめに アクセス アウシュビッツ強制収容所の解説 アウシュビッツの見取り図

  • アウシュヴィッツ平和博物館Webサイト

    アウシュヴィッツ 「人類が二度と繰り返してはならない20世紀の負の遺産」狂信的な全体主義や排他的な民族主義の結果、人類に暗黒の歴史を残しました。 アンネ・フランク アウシュヴィッツは、人間がどこまで冷酷になれるかを実証した場でしたが、一方で ...

すべての検索結果 :
Windows Live® の検索結果

アウシュビッツ

アウシュビッツ Auschwitz
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

ポーランド南部の町で、ポーランド名はオシフィエンチムOświęcim。クラクフの西約50km、ビスワ川の近くにある。第2次世界大戦時にナチス・ドイツ(ナチズム)が建設した、最大規模の強制収容所・絶滅収容所の施設跡がある。

「アウシュビッツ」はポーランドに侵攻したナチス・ドイツの呼び名で、現在もオシフィエンチム近郊に広がる収容所群全体をアウシュビッツ強制収容所という。収容所群には、隣村ビルケナウ(ポーランド名ブジェジンカ:Brzezinka)の大規模絶滅施設アウシュビッツ第2収容所がふくまれ、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所とよばれることも多い。

これらの強制収容所は、1979年に「アウシュビッツ強制収容所」として世界遺産(文化遺産)に登録された。しかし近年、ポーランド政府は外国メディアなどがしばしば「ポーランドのアウシュビッツ強制収容所」と紹介するため、「強制収容所はポーランドがつくったもの」と誤解されているとして、世界遺産委員会に名称変更を要求。2007年6月、世界遺産委員会は「アウシュビッツ・ビルケナウ―ナチス・ドイツの強制・絶滅収容所(1940~45年)」と登録名称を変更、これらの収容所がナチス・ドイツによるものであることを明確にした。

II

ホロコースト

アウシュビッツ収容所は、第2次世界大戦時につくられた、ジェノサイド施設である。死者の数についての正確な統計はのこされていないが、収容所長ヘスは、もっとも少なくみても250万人とのちに証言した。犠牲者のほとんどはユダヤ人で、アウシュビッツは、ホロコーストとよばれるヨーロッパ・ユダヤ人虐殺の象徴となっている。第2次世界大戦でナチに殺害された500万~600万人とみつもられるユダヤ人のうち、少なくとも3分の1がアウシュビッツで殺された。さらに、多くのポーランド人、捕虜になったソ連兵、宗教者、共産主義者、障害者、ロム(ジプシー)、同性愛者たちも犠牲となった。

III

収容所の歴史

アウシュビッツ収容所は、1940年5月、親衛隊(SS)隊長で国家秘密警察ゲシュタポ長官のヒムラーの指令でつくられた。はじめは、占領下ポーランドとドイツ国内の収容所からおくられてくる政治囚のためのものだった。ビルケナウのアウシュビッツ第2収容所は、41年10月から稼働し、翌年8月には女子収容棟を併設した。ビルケナウは絶滅施設であり、シャワー室にみせかけた4つのガス室、死体を灰にするための4つの焼却炉があった。さらに、アウシュビッツを中心にして、およそ40ほどの付属収容所があった。これらは強制労働のための収容所で、アウシュビッツ第3収容所とよばれた。

収容者は、ナチ占領下のヨーロッパ各地から鉄道で毎日のようにアウシュビッツにはこばれた。列車からおろされた収容者は、3つのグループにわけられた。第1のグループは、すぐさまガス室におくられた。ビルケナウ収容所では1日に2万人以上のガス殺・焼却が可能で、害虫駆除会社が製造するチクロンBとよばれるシアン化合物ガスがもちいられた。

第2のグループは、奴隷労働に従事し、IGファルベン社やクルップ一族などが経営する工場ではたらかされた。1940~45年に、40万5000人の収容者が強制労働に従事した、と記録されている。このうち34万人が、処刑、飢え、病気のために死亡した。収容者の中には、ドイツ人企業家オスカー・シンドラーによって命をすくわれたものもいた。シンドラーは、自分の経営する工場ではたらかせるために、アウシュビッツから収容者をもらいうけ、およそ1000人のポーランド系ユダヤ人の命をすくった。

第3のグループは、主として双生児や小人症者で、「死の天使」とよばれたメンゲレら医師のもとにおくられ、医学上の人体実験をほどこされた。

収容所の管理に収容者もつかわれ、カポ(労働監視)や特別班(死体焼却係)に配置された。彼らは、定期的に殺され、補充された。カポや特別班は親衛隊の監視下にあり、アウシュビッツには、総勢6000人の親衛隊が配備されていた。

収容所内には抵抗組織がつくられていた。これらの組織はわずかだが収容者を逃亡させ、逃亡者たちは所内の情報を外部にもたらした。そうした情報の中には、1944年5~7月におこなわれた、ハンガリーから移送された数十万人のユダヤ人の殺害もふくまれていた。

1945年1月27日にソ連軍がアウシュビッツ収容所を解放したとき、約7600人の生存者がいた。しかし、解放の直前に、5万8000人以上の収容者がナチにおいたてられ、ドイツへの死の行進についたのだった。

ポーランド政府は現在、アウシュビッツの犠牲者を追悼するために、収容所跡を国立オシフィエンチム・ブジェジンカ博物館としている。収容所入り口の鉄扉の上には、ナチがのこした「労働が自由にする」という標語がのこっている。

項目内で検索
項目全体を印刷
項目の URL をメールで送る




© 2009 Microsoft