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項目構成
ボーベ大聖堂は、ルイ9世がフランスの王位につく直前の1225年に着工された。ゴシック建築はルイ9世の26~70年の長い治世の間、レイヨナン様式とよばれる新しい時代にはいる。レイヨナンという言葉は「放射状の」という意味で、この様式の特徴となる車輪の軸のような巨大なばら窓の形に由来する。建物の高さは第一の目標ではなくなり、建築家は教会の石の枠を少なくし、窓の区域をふやし、トリフォリウムの外壁をはざま飾りのガラスにおきかえた。レイヨナン様式の教会の内部と外部は、盛期ゴシック大聖堂の量感効果の代わりに、すきとおった殻のようになった。 レイヨナン様式の特徴はサン・ドニの王立修道院付属教会でとりいれられ、新しい方式の最初の大きな企画となった。周歩廊と西正面だけはもとの構造のまま保持された。レイヨナン様式の代表は、パリのシテ島にあるサント・シャペルである。この広々とした宮廷礼拝堂は、1242~48年にルイ9世によりたてられた。巨大な窓は、地上近くから天井までつらなり、礼拝堂全体を、ステンド・グラスでおおいつくされた石の骨組みにかえている。 ゴシック建築の発展における窓の拡大は、内部に明かりをたくさんとりこむためではなく、増加するステンド・グラスの場所を確保するためだった。サント・シャペルやシャルトル、ブールジュの大聖堂でみられるように、ステンド・グラスでみたされたゴシック教会の内部は、ロマネスク教会と同じくらいうす暗い。しかしそれは、窓の輝きにうちふるえる明るんだ暗さである。主要な色は、暗くこい青、かがやくルビーのような赤である。 礼拝堂や側廊の窓の小さなステンド・グラスの円形枠には、聖書や聖人伝からの物語がえがかれた。見る者の間近にあるので、これらの絵は細部まで容易にみてとれる。高窓のステンド・グラスには、大きな単身像がえがかれ、下からはっきりみきわめることができる。1270年代にはじまった神秘的な暗さは、グリザイユ・ガラスが彩色パネルと併用されるようになるにつれてとりのぞかれ、色調もしだいに明るくなった。
フランス・ゴシック建築は、ほかのヨーロッパの国々に深い影響をあたえた。大きなアーケードと小さな高窓をもつブールジュ大聖堂の方式は、フランスでは広まらなかったが、スペインでは盛んにとりあげられた。それは、1221年のトレド大聖堂にはじまり、14世紀初めのパルマデマリョルカ、バルセロナ、ジローナの大聖堂にもひきつづいて採用された。 ドイツではフランス・ゴシック建築の影響は決定的であった。ケルン大聖堂の内部は、アミアン大聖堂のレイヨナン様式をもとにしてつくられ、建物はボーベ大聖堂の高さをこえるほどになった。 イタリアとイギリスでは、フランス・ゴシックの影響は少なかった。フィレンツェにはイタリア風のゴシック教会があったり、シエナやオルビエートの大聖堂の正面にはフランス・ゴシックの面影がのこったりするが、それらはイタリア・ロマネスクからブルネレスキと初期ルネサンスにいたる過渡的な姿にすぎない。 イギリスでは、フランス・ゴシック建築の波及は2度だけだった。最初は1170年代のカンタベリー大聖堂の東側に影響があり、次はヘンリー3世のウェストミンスター寺院の場合である。そのほかでは、イギリスの建築家は独自の高度なゴシック様式を発展させた。イギリスの教会は、フランスの大聖堂の高くそびえる垂直性と機能的論理をしりぞけて、長大さと水平性を強調した。こうした極端な長大化は、しばしば2つのはなれた袖廊をもたらした。装飾的役割ももつリブの増加も、イギリス・ゴシックの特徴である。 イギリスの初期ゴシック建築のようすは、ソールズベリー大聖堂(1220年着工)にじゅうぶんしめされる。ウェストミンスター寺院での棒状はざま飾りの導入は、その後のはざま飾り模様の多様な展開をもたらした。13世紀後半~14世紀の装飾様式の時代には、リンカン大聖堂のうつくしいエンジェルの内陣(1256年着工)のような詩的な空間が生まれた。
ロマネスクの先例にならって、教会の教義や信仰をつたえる多くの人物像が、フランス・ゴシック大聖堂のくぼみのある門をかざった。12世紀~13世紀初めには、ゴシック彫刻はまだ建築の支配下にある。もっとも大きく重要な人物像は、大聖堂入り口の両側にあるたばね柱の等身大をこえる彫像である。それらは、支持体となっている小円柱についているので、円柱人像とよばれる。 現存する最初期の円柱人像は、ゴシック大聖堂より前の時代に属する、1155年ごろのシャルトル大聖堂の西扉口の彫刻である。この背の高い円柱状の人物像は、小円柱の形をそのまま反復し、ロマネスク様式でつくられているが、気高い精神性が感じられる。つづく数十年間、シャルトル大聖堂の西扉口の彫刻の影響は、他のフランスの大聖堂の扉口だけでなく、スペインのサンティアゴデコンポステラ大聖堂の彫刻群にもおよんだ。 しかし、これらのゴシック以前の彫刻は、まだロマネスク的であった。1180年代から、ロマネスク様式は過渡期にはいり、彫像には優美なくねりやのびやかな動きがみられるようになる。このいわゆる擬古典様式は、13世紀の初めシャルトル大聖堂の南北の袖廊におかれた彫刻連作で高まった。古典的とはいっても、ゴシックの人物像と本当の古典彫刻の間には根本的な違いがある。古典彫刻では、彫像でも浮彫でも、人体ははっきりと形づくられ、着衣とは明瞭にわけられている。ゴシックの人物像では、人体と着衣のこうした違いは存在せず、両者は一体となっている。ドイツのバンベルク大聖堂にあるアダムとイブの彫像(1237年以前)にみられるように、裸体が表現されるときでも、人体は簡略な抽象化された形にとどめられている。
古典的な波うつ衣文の表現法は、パリのノートル・ダム大聖堂の「聖母戴冠(たいかん)」の扉口で1210年ごろはじまり、アミアン大聖堂の西扉口で25年以降ひきつがれたが、しだいに堅固な量感をもつようになる。40年代、ランス大聖堂の西正面とサント・シャペルの使徒像で、衣文はのちのゴシック彫刻を特徴づける角ばった形と深くほりこんだ管状のひだをみせるようになる。同時に、彫像は建築に拘束されなくなった。 ランス大聖堂とサント・シャペルの彫像では、誇張されたほほえみ、アーモンド形の目、小さな頭部の束髪、類型的な姿勢などがあらわれる。こうした彫刻の外観は、自然主義的な形態、宮廷風の気取り、繊細な精神性を総合したところから生まれた。これらの類型的な傾向と自然主義の進行にともなって、マリア崇拝による聖母像が生まれる。下半身を外側にむけて幼児キリストとつりあわせた聖母像は、サント・シャペルの低い門にはじめてあらわれ、のちに全ヨーロッパに広がった。
北フランスはゴシック建築とゴシック彫刻の発祥地であったが、ドイツにも重要な記念彫刻がのこされている。フランス・ゴシック彫刻から発展したドイツ・ゴシック彫刻は、ときにカリカチュアに近い誇張した表現から、詩的な美しさや高貴さにいたるまで幅広い。13世紀ドイツ彫刻の最大の作例は、ランス大聖堂の影響のもとに生まれたバンベルク大聖堂の「バンベルクの騎士像」である。これは、6世紀以来の西洋美術で最初の騎馬像であり、これがつくられた1240年ごろにドイツ・ゴシック彫刻の絶頂期をむかえた。 ドイツにくらべると、イタリアでのフランス・ゴシック彫刻の影響は、建築と同じく微弱であり、イタリアの早期ルネサンスの中のゴシック的傾向とみなされることが多い。早期ルネサンスは、1260年にニコラ・ピサーノがピサの洗礼堂に大理石説教壇を制作したときにはじまる。ニコラの息子、ジョバンニ・ピサーノは、はじめてフランス・ゴシックの手法をとりいれた。シエナ大聖堂のために、90年ごろつくりだした預言者やギリシャの哲学者の彫像は、イタリアにおけるこの時代の傑作でもある(→ ピサーノ父子)。 14世紀の終わりごろ、フランス・ゴシック様式をとるイタリアの彫刻家はふえつづけたが、その作品は、古典様式を特徴づける人体と衣文の区別を重んじた。こういった傾向は、フィレンツェ・ルネサンスの開幕をつげるギベルティの登場によって1400年ごろ終わりをつげた。
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