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項目構成
フランスでは、13世紀を通じて装飾美術はおおむね教会美術の支配下にあった。1225~50年ごろの「ビーブル・モラリゼ(道徳の聖書)」の挿絵の円形画は、ステンド・グラスの図柄をまねている。ルイ9世の「詩篇」(1255年以後)の枠取りにつかわれたばら窓のついた切妻屋根の図柄は、サント・シャペルの装飾的な屋根にもとづいている。 1250年ごろからはじまった宮廷様式は、彫像にもおよんだ。象牙(ぞうげ)でできたサント・シャペルの優美な聖母子像(1265?)は、この礼拝堂の低い門にある大きな彫像をもとにしている。ランス大聖堂の西正面の聖母戴冠の巨大な群像は、親密感のある優美さをそなえている。60年代から、大きな金属製の聖遺物箱は、レイヨナン様式の教会をかたどるようになった。 1300年ごろになると、装飾美術は独立した役割をもつようになる。ドイツのラインラント地方では、はげしく感情が表出された表現主義の作品があらわれる。これらの表現は、キリストの肩にわかい聖ヨハネがやさしく頭をかたむけた座像のような、コンスタンツ湖の流派の彫像から、ライン川中部の十字架にかけられた悲痛なキリスト像にいたるまで幅が広い。14世紀後半のドイツの彫刻家は、悲しみの聖母マリアがキリストの遺体をだきかかえる新しい群像、いゆわる「ピエタ」を生みだした。14世紀半ば近くになると、ピュセルの登場によって、パリの彩飾写本は新しい傾向をみせる。彼の「ベルビルの聖務日課書」(1325?)では、文字装飾、挿絵、葉形の枠取りなどのすべてが、本のページを華麗に装飾し、のちの写本画家にとっての定型となった。この写本の中の室内場面にもたらされた部分的な線遠近法による新しい空間表現は、のちの発展に大きな意味をもった。
1230年代から、パリは北方ヨーロッパ美術の有力な中心地であった。しかし、1350年代における、疫病の猛威と百年戦争の勃発(ぼっぱつ)以後、パリはたんなる美術都市のひとつにすぎなくなった。
芸術潮流の広がりの結果として、国際ゴシック様式とよばれる新しい絵画の総合化がおこった。ゴシックのいろいろな要素がイタリア画家の空間描写とむすびつく。この様式は、1370年代にパリではじまり、ベリー公ジャンの宮廷で1400年ごろまでつづいた。国際ゴシック様式の写本画家たちは、挿絵の空間性を発展させ、画面は現実世界に開かれた真実の窓になった。この動きは中世の観念的な視点からはなれ、ファン・エイクと北方ルネサンスの写実的絵画を生みだした。
ゴシック彫刻は、イタリアの早期ルネサンスに影響されなかった。1400年ごろ、スリューテルはブルゴーニュのフィリップ大胆公のために、ディジョンで後期ゴシック時代を代表する彫刻を制作した。スリューテルは、14世紀のほっそりした人物像や貴族的な好みをさけて、量感のあるたっぷりとした着衣で人物像をつつみこんだ。フィリップ大胆公の墓(1385年着工)の哀悼する群像では、衣文の表現だけで、悲しみを雄弁につたえている。「モーセの井戸」(1395~1404)をかこむ彫像では、旧約聖書の主人公たちをフランドルの長老の姿にかえている。 1406年にスリューテルが没したあと、その影響はブルゴーニュから南仏、スペイン、ドイツにまで広がった。1500年ごろ、フランスのコロンブ、ドイツのリーメンシュナイダーやシュトースなどにより、ゴシック彫刻の時代は幕を閉じた。
フランスの後期ゴシック建築は、いりくんだ曲線を多用したはざま飾りが炎のようにみえることからフランボワイヤン(火炎)様式とよばれる。おもに教会の外観にこの様式の派手な装飾がつかわれた。柱頭装飾をやめて、簡単な石の支柱にすることで、教会内部は思い切った簡素化がおこなわれた。
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