検索
エンカルタ内で検索 : 宗教改革

Windows Live® の検索結果

  • 宗教改革 - Wikipedia

    宗教改革 (しゅうきょうかいかく)とは、16世紀(中世末期)の キリスト教 世界における教会体制上の革新運動である。 ルター の 贖宥状 批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、 ...

  • 3 宗教改革

    2 スイスの宗教改革とカルヴァン ドイツと並行してスイスでも宗教改革がおこった。スイスではツヴィングリ(1484~1531)が、1523年以来チューリヒで宗教改革を始めた。

  • 3 宗教改革

    1 ルターの宗教改革 1517年にドイツでおこった宗教改革は、単に宗教面のみならず、政治・経済・社会のあらゆる面に大きな影響を及ぼした。

すべての検索結果 :
Windows Live® の検索結果

宗教改革

宗教改革 しゅうきょうかいかく Reformation
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

キリスト教における16世紀の大革命運動。この運動が、西方キリスト教世界における教皇の全教会的至上権に終止符をうち、結果的に、プロテスタント諸教会(プロテスタンティズム)の成立をもたらした。先行するルネサンスおよび後続するフランス革命とともに、宗教改革は西ヨーロッパの中世的生活を一変させ、歴史上の近代の開始をつげるものだった。

宗教改革運動そのものは、16世紀の初頭にルターがはじめて教会の権威に公然と抵抗したことによってはじまったが、ルターの革命的な反抗を生む諸条件は、何百年も前から存在していた。それらの諸条件は、複雑な教義的・政治的・経済的・文化的諸要因からなりたっていた。

II

宗教改革以前の諸条件

オットー1世が962年に神聖ローマ帝国を再興して以来、教皇皇帝は、どちらが優位を占めるかをめぐってたえず争いをつづけていた。この抗争は、全体としてみれば、教皇側の勝利におわったが、結果的にローマとゲルマン系帝国の間にきびしい敵対感情をつくりだした。14~15世紀になると、ゲルマン民族主義が高揚したことから、敵対関係はさらに増幅された。教皇への納税や、遠くはなれた外国人の教皇を後ろ盾とする教会役職者に服従しなければならないことへの反発が、ヨーロッパのほかの国々でも公然と表明されるようになった。

イングランドでは、教皇支配からの独立をめざす運動がはじまり、1279年には「死手法」(修道院が国王の許可なしに土地の寄進をうけることを禁じた法)、1351年には「後継聖職者任命法」(聖職者が死亡したり退職したりする場合、教皇の後継者任命を無効とする法)、93年には「教皇尊信罪法」(紛争に際してローマへの上訴を禁止する法)が次々と発布された。その結果、カトリック教会が地元の政府の土地管理権を制限したり、教会の役職者を任命したり、法的な権威をふるう力がいちじるしく縮小された。

14世紀のイギリスの宗教改革者ジョン・ウィクリフは、大胆にも教皇制度そのものに異をとなえ、免償状(いわゆる免罪符)の販売、聖地巡礼の習慣、聖人たちの過度の崇敬、聖職者たちの道徳的・知的水準の低さを攻撃した。ウィクリフは、一般人の心をつかもうとして、聖書を英語に翻訳し、ラテン語ではなく英語で説教した。彼の教えはボヘミアに飛び火し、宗教改革者ヤン・フスがこれをうけついだ(フス派)。

1415年にフスが異端者として処刑されると、ただちにフス派戦争が勃発(ぼっぱつ)した。これはボヘミアの民族主義の力強い発露であり、神聖ローマ帝国と教皇の連合軍によって、多くの困難を経たのちにやっと鎮圧された。この戦争は、ルターの時代にドイツでおきる宗教戦争の先駆けとなった。フランスでは1516年に、国王と教皇の間で政教条約(コンコルダート)がむすばれ、フランスの教会は事実上、国王の権威のもとにおかれた。それ以前にほかの国々が教皇とむすんだ政教条約は、独立した国民教会の成立への道を準備するものだった。

13世紀にはすでに、聖職位階制の全階層にわたる役職者たちの貪欲(どんよく)ぶり、不道徳さ、無知のゆえに、教皇権はしばしば非難の的になっていた。教会は広大な納税免除の土地を所有していた。統計はまちまちだが、ヨーロッパ全土の5分の1から3分の1が教会の財産だったといわれる。このことは、まずしい土地しかもたない農民の嫉妬(しっと)と怒りをひきおこさずにはいなかった。

14世紀になると、アビニョンへのいわゆる「教皇のバビロン捕囚」と、それにつづく大離教(大シスマ:ローマとアビニョンにおける対立教皇の並立)がおき、教会の権威を大いに失墜させた。また教会の擁護者たちは、それぞれが支持する教皇の党派にわかれて争いをつづけた。教会の役職者たちも改革の必要性をみとめ、1414~18年のコンスタンツ公会議では、聖職位階制全体をみなおす大胆な構想が論議された。しかし結局、どの構想も多数派の支持を得るにはいたらず、急進的な変革はなにもおこなわれなかった。

15世紀にはイタリアで、初期ルネサンスとともに、古典的な学問と知的探究の復興をめざす人文主義がはじまり、スコラ学にかわって西ヨーロッパの中心哲学となった。その結果、学問はもはや教会の指導者たちの独占物ではなくなった。平信徒の一般人にも古代文献を研究することができるようになり、イタリアの人文主義者ロレンツォ・バラのような学者たちは、それまで教会の教義と伝統の基盤をなしてきたラテン語訳聖書やその他の文書の批判的吟味をはじめた。活版印刷が発明されたことは、書物の流通を大いにうながし、ヨーロッパじゅうにさまざまな新しい思想をひろめた。

オランダのエラスムス、イングランドのジョン・コレットやトマス・モア、ドイツのロイヒリン、フランスのジャック・ルフェーブル・デタープルといったイタリア以外の人文主義者たちは、新しい知見を応用して、教会の習慣を批判したり、聖書についてのより正確な知識を発展させようとした。これらの人文主義者たちの学問研究を基盤として、やがてルターや、フランス人神学者カルバンや、その他の宗教改革者たちが、すべての宗教的権威の源泉は教会ではなく聖書である、と主張することになるのである。

III

各国の宗教改革運動

プロテスタント革命は、1517年にドイツでルターが「九十五カ条の提題」を発表し、免償状の理論と習慣に挑戦したことによって口火を切った。

1

ドイツとルターの宗教改革

教皇側は、ルターに自説を撤回し、教会の権威に服従するように命じた。するとルターは、かえって態度を硬化させ、改革の必要性を力説し、秘跡の体系を批判し、宗教は、聖書にふくまれた導きの上にたつ個々人の信仰にもとづくものだと主張した。教皇が破門にうったえて威嚇すると、ルターは教皇の破門予告状を教会法一冊ともども公衆の面前で焼きすてた。この大胆な行動は、カトリック教会の全体系との決定的決別をしめす象徴的な行為だった。

反乱の潮流を食いとめようと、神聖ローマ皇帝カール5世とドイツの諸侯および聖職者たちは、1521年にルターをウォルムス国会に召換し、自説の撤回をもとめた。ルターはこれを拒否したため、帝国公民権をうばわれた。ほぼ1年の間、彼は擁護者の城にかくれすみ、自分の主義主張を展開したパンフレットを次々としるすとともに、新約聖書をドイツ語に翻訳した。ルターの著作は、皇帝の勅令によって禁書とされたにもかかわらず、半ば公然と販売され、多くのドイツの大都市をルター主義の拠点にかえる強力な武器となった。

改革運動は、民衆の間にすさまじい反響をよびおこした。その後ルターは隠れ家をでて、故郷ウィッテンベルクにもどり、革命の指導者となった。ドイツ全体が、宗教・経済方針にそって2大陣営に分裂した。皇帝や諸侯の多くや高位聖職者などをふくむ、伝統的体制の維持に関心をもつ人々は、カトリック教会を支持したが、北部ドイツの諸侯や下級聖職者、商人階級、農民の大部分は、ルター派を支持した。後者の人々は変革を、宗教と経済の双方における独立獲得の好機として歓迎したのである。

1524年には両陣営の間で本格的な戦闘が開始された。これがドイツ農民戦争の始まりである。この戦争は、農民の側からみれば本質的には、よりよい経済的利益を得ようとする試みだった。ルターの教えに触発され、宗教用語の装いをこらしたものではあったが、農民がめざしたのは、それまで聖職者や平信徒の領主たちが伝統的に要求してきた一連の奉仕義務から自己を解放することであった。

ルターは、宗教改革をもとめる自分の要求が、既存の経済的秩序を徹底的に混乱させるために利用されることをみとめなかったが、紛争を平和的に解決するために、農民の要求に耳をかたむけるよう領主たちによびかけた。しかし、やがて彼は農民に反対するようになった。1525年には「農民の殺人軍団に反対する」と題するパンフレットを書き、農民が暴力にうったえたことをはげしく攻撃した。

結局、1525年に農民軍は敗北したが、その後もカトリック教会とルター派の亀裂は拡大するばかりだった。26年にはシュパイアー国会が開催され、ある種の妥協が達成された。ルター主義を実施したいとのぞむ領主は、自由に実行することができるという合意がなされたのである。しかしその3年後には第2シュパイアー国会が召集され、多数派のカトリック側は一方的に協定を破棄してしまった。

少数派のルター派がこれに抗議したことから、彼らは「抗議者」すなわち「プロテスタント」とよばれるようになった。したがって、もともと「プロテスタント」といえばルター派をさしたが、この語はのちに意味をひろげ、カトリック教会への反抗から生じたキリスト教諸教派全体の総称としてもちいられるようになった。

1530年に、ドイツの学者で宗教改革者のメランヒトンが、ルター派の主義主張を妥協的な仕方でのべた「アウクスブルク信仰告白」を書きあげ、カール5世とカトリック教会側に提出した。結局、カトリック教会とルター派の相違を調停することはできなかったが、この「信仰告白」は以後、ルター派教会とその信条の基盤となった。

カール5世はその後、フランスやトルコとの戦いに忙殺され、ルター派攻撃のために軍隊をさしむけることができなかったが、ようやく国際紛争から解放された1546年、教皇およびザクセン公モーリッツと同盟して、プロテスタント諸侯がむすんでいた共同防御組織シュマルカルデン同盟に戦いをいどんだ。最初はカトリック側が優勢だったが、のちにモーリッツがプロテスタント側にねがえったので、カール5世は講和を余儀なくされた。こうして55年、アウクスブルクの宗教和議がむすばれ、内戦に終止符がうたれた。

和議の内容は、当時300ほどもあったドイツの領邦国家の各領主が、カトリック教会につくかルター派につくかを選択し、自分のえらんだ信仰をそれぞれの臣下や領民に強制できるというものだった。そのころまでにドイツの人口のほぼ半分を擁する宗教勢力にふくれあがっていたルター派は、こうして最終的に公認され、それとともに、教皇を至上の権威とする単一の西欧キリスト教共同体という宗教的統一の理念も崩壊したのである。

前のページ
| |
次のページ
項目内で検索
項目全体を印刷
項目の URL をメールで送る




© 2008 Microsoft