![]() |
Windows Live® の検索結果
Windows Live® の検索結果 ページ 9 / 9
項目構成
1957年には、老齢年金の調達方法をめぐって国会ではげしい議論がくりかえされた。同年10月におこなわれた国民投票では、国民による掛け金の強制出資と政府によるインフレ・スライド型の年金保障を主張した社会民主労働党への賛成票が多かったが、過半数にはいたらなかった。この法案を強硬に成立させようとした社会民主労働党に反発した農民党が連立を解消したため、エランデルを首班とする社会民主労働党の単独政権が10月下旬になって誕生した。 1958年4月、エランデル政権は年金の法案で政党間の折り合いがつかないことを理由に辞任したが、6月の総選挙でかえりざき、ついに59年5月14日に年金に関する法案が国会で可決された。さらに同年末、スウェーデンはEFTA(欧州自由貿易連合)の創立にかかわり、同時に加盟する。71年には憲法が改正されて国会が一院制となり、新しい選挙制度が施行された。73年にグスタブ6世が死去すると、彼の孫カール16世グスタブが王位を継承した。75年1月1日に発効した新憲法では、これまでわずかにのこされていた国王の権限がさらに弱められた。 1960年代後半に勃発したベトナム戦争に対して、スウェーデンは反対の立場をとっていたため、アメリカとの関係が悪化し、ベトナム戦争に反対する多くのアメリカの若者がスウェーデンに政治亡命した。さらに、72年に首相パルメがアメリカの軍事行動を批判したことにより、74年までアメリカと国交断絶の危機がつづく。
スウェーデンは1974年と75年の世界的不況を切りぬけたものの、高いインフレ率、増大する対外債務、莫大な歳入不足にくるしめられ、44年の間政権を維持してきた社会民主労働党は、76年9月の総選挙で中央党、穏健党、自由党からなる連立内閣に政権をゆずることとなった。首相フェルディンは、インフレの抑制とスウェーデン製品の輸出増大をめざし、77年に緊縮政策を導入したが、原子力保有に関する問題で78年に辞職した。80年5月には近年まれにみるゼネストがおこり、国内は10日間麻痺(まひ)状態となる。81年のゼネストは回避されたが、フェルディンは中央党と自由党による少数連立内閣を組閣した。 1982年の総選挙で社会民主労働党が多数を占め、85年まで政権を担当した。82年に首相となったパルメは、86年2月28日にストックホルムで暗殺される。彼の後任には副首相だったカールソンがえらばれ、内閣の閣僚や政策においてもパルメの路線を継承した。88年の総選挙で社会民主労働党は過半数を占めたが、国会が賃金、価格、家賃の一時的凍結に関する法案を否決したため、90年にカールソン首相は辞職。その後、カールソンはふたたび新内閣を組織すると、所得の増大を一部みとめるという緊縮予算の改訂法案を国会に提出し、国会はこの法案を可決した。
1991年9月の総選挙で社会民主労働党は相当数の議席をうしなったが、第1党の地位は確保した。カールソンが辞職すると、同年10月、穏健党のビルトが中央党、自由党、キリスト教民主党との連立政権を樹立した。新政府は、35の国営企業を民営化して、経済の規制緩和をはかり、社会福祉費を縮小して政府の支出を大幅に削減し、国内での外国投資企業に対する規制を撤廃しようとつとめた。 しかし、この連立政権は長くはつづかなかった。1994年9月には、総選挙で投票数の45%以上を獲得した社会民主労働党の単独政権が成立した。カールソン内閣は半数以上を女性閣僚が占めており、また国会議員の41%が女性で占められ、注目をあつめた。96年3月、カールソン首相は社会民主労働党党首と首相を辞任、新しく党首に選出されたペーション蔵相が首相に就任した。
1994年5月、欧州議会はスウェーデンのEU(ヨーロッパ連合)加入を勧告した。同年11月の国民投票の結果、賛成多数となり、国会の承認をへて、95年1月1日、スウェーデンはEUに加盟した。しかし、99年1月の通貨統合については、参加条件である財政赤字幅の削減や福祉政策の見直しに対して国民の反対が強く、97年6月、政府は当面は参加しないことを表明、98年5月のEU首脳会議で不参加が正式に決定した。 1998年9月の総選挙で社会民主労働党は議席を大幅にへらしたものの第1党を確保し、ペーション首相は単独政権を維持した。ヨーロッパ各国の保守回帰があいつぐ中、2002年9月の総選挙で、社会民主労働党は得票率を前回より4ポイントのばし、3期連続で単独政権を維持することになった。国民は、中道右派が主張する減税による経済改革よりも、高負担・高福祉の継続をえらんだことになる。 再任されたペーション首相は、2005年中にユーロの流通を実現するため、03年9月にユーロ導入の是非を問う国民選挙を実施することを決定した。ユーロ導入をめぐっては、与党社会民主労働党および、EU諸国との市場統合を強化したい産業界の積極姿勢に対し、閣外協力の緑の党と左翼党は、高福祉社会から後退する懸念をうったえて反対派の支持をあつめ、国内世論は大きくわかれていた。03年9月、国民投票の直前に、ユーロ推進派のリーダー的存在であったアンナ・リンド外相がデパートで買い物中に刺殺されるという事件がおこったが、投票は予定どおり14日に実施され、賛成42%、反対56%の大差で否決された。
2006年9月に総選挙がおこなわれ、与党側171議席に対して、穏健党の党首ラインフェルトがひきいる野党4党の中道右派連合が178議席を獲得し、政権は12年ぶりに交代することになった。選挙戦で社会民主労働党は、近年の安定した成長経済の実績をアピールして、伝統的なスウェーデン型福祉社会の継続をかかげた。これに対して中道右派連合は共同マニフェストで、失業問題の改善、医療福祉、教育改革をうったえ、中低所得層に対する減税や失業手当の削減を提示して、変化をもとめる人々の票をあつめた。10月、穏健党、中央党、自由党、キリスト教民主党の連立内閣が発足。首相に就任したラインフェルトは41歳で、戦後最年少の首相である。
© 1993-2008 Microsoft Corporation. All Rights Reserved. |
© 2008 Microsoft
![]() ![]() |