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1890~1970 フランス大統領、在任1959~69年。首相、在任1944~46、58年。第2次世界大戦期の英雄で、第5共和政の初代大統領となった。北フランスの小貴族の家系に生まれ、サン・シール陸軍士官学校をへて任官し、第1次世界大戦中にドイツ軍の捕虜となったが、ドイツ降伏により帰還した。 戦後はペタン元帥の幕僚となり、戦争理論に関心をもって、はやくから軍隊の機械化を予見し、機甲師団の創設を主張したが、軍上層部にはうけいれられなかった。しかし、革新派の将校として一部では評価され、第2次世界大戦勃発後の1940年6月5日、レノー内閣が発足すると陸軍政務次官に任命された。ところが16日に首相レノーは辞任、フランスはドイツに降伏した。ド・ゴールは対独降伏にさきだって、単身ロンドンにおもむき、18日にはBBC放送をとおして対独戦の継続と抵抗をうったえた。
大戦中、ド・ゴールはイギリスで自由フランス軍を結成して連合軍にくわわり、植民地行政当局や、植民地駐屯フランス軍部隊を自由フランス軍傘下に吸収して連合国の支援をはかるとともに、フランス本国内の対独抵抗運動とビシー政府に反対する勢力の結集につとめた。ド・ゴール自身は社会主義・共産主義をきらい、フランスの栄光をとなえる国粋主義的傾向をもっていたが、本国抵抗運動における共産党・社会党系勢力の重要性をみうしなわず、提携をはかった。 連合軍が北アフリカのドイツ軍を排除すると、ド・ゴールは1943年6月、アルジェリアの首都アルジェにフランス国民解放委員会を設置、44年6月には委員会をフランス共和国臨時政府に改組し、みずからその首班となった。8月19日、パリ民衆が占領ドイツ軍に対して蜂起すると、ド・ゴールは戦車部隊を急行させてパリ解放に参加させた。8月26日には自身がパリに入城して臨時政府を移転し、戦後政治の主導権確保をはかった。 だが、戦争終結後、強力な行政権を確立して戦後復興をになおうとしたド・ゴールの路線は、新憲法制定をめぐる論議でうけいれられず、1946年1月、下野した。翌年にはフランス国民連合(ド・ゴール派)を結成したが、53年に解散し、政界をいったん引退した。
1958年、フランスはアルジェリアの独立をめぐって危機に直面した。仏領アルジェリアの死守をさけぶ現地軍と右翼は、独立容認にかたむく本国政府を信用せず、ド・ゴールの登場を要求して、パリ進撃の構えをみせた。6月、ド・ゴールは首相としてむかえられ、国民議会は彼に6カ月間の全権委譲を承認し、新憲法起草をゆだねた。大統領に強力な権限をあたえた新憲法は、国民投票で圧倒的な支持をえ、ド・ゴールは12月に第5共和国の初代大統領にえらばれ、59年1月8日に就任した。 ド・ゴールはアルジェリア民族解放戦線と折衝を重ね、1962年3月にはエビアン協定をむすんでアルジェリアを独立させ、さらにその他のフランス植民地の独立も承認した。この一連の独立容認によって、ド・ゴールはのちに第三世界の友人として、国際政治で大きな発言権をもつことになる。→ 共和政
植民地の放棄によって、植民地維持のための財政的負担が軽減され、植民地防衛のための膨大な兵員も不要になると、ド・ゴールは、若いころ主張していた、最新の科学技術で武装した軍隊をつくることに全力をあげた。また、植民地に依存していた古い産業を整理して、原子力や宇宙航空、電子工学などの先端技術をとりいれた新しい産業が育成された。1960年には最初の核実験をおこない、国産のジェット旅客機や軍用機を開発、原子力空母や潜水艦の建造をはじめた。58年にEEC(ヨーロッパ経済共同体)が発足していたが、フランス経済はこれにあわせて生まれかわったのである。
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