Windows Live® の検索結果
Windows Live® の検索結果 項目構成
自我とは、人が適応的に生きていくうえに必要なもろもろの精神機能をになった人格の中枢機関のことである。すなわち、外界を知覚してさまざまな状況を適切に判断し(現実機能)、対人関係をうまく調整して適応をはかり(適応機能)、内部に高まる欲求や感情を巧みに統制し(統制機能)、心理的な危機におちいることから自分をまもり(防衛機能)、自律的に生活しようとする(自律機能)等々の機能をになう。精神分析学(→ 精神分析)では、この自我、エス(イド)、超自我の3つがその心的構造論において関連づけてとりあげられる。
1920年前後にフロイトの「快感原則の彼岸」や「自我とエス」が出版されるまでは、精神分析学は、患者の忘却された心的外傷経験や衝動など、患者の中で抑圧されたままになっている無意識にたどりつき、それを患者に意識化させることが、その治療の主要な目的であると考えられていた。そして患者のその無意識は、意識、前意識、無意識という3層構造の基底部分として理解されていた(→ 深層心理学)。 しかし、精神分析治療の経験が蓄積されていく中で、患者は上にのべたようなもろもろの自我機能がじゅうぶんに機能していないこと、したがって、その無意識を解明すること以上に、自我機能の異常さをとりのぞき、自我に本来の機能をとりもどすことが患者にとって重要であるということが認識されるようになった。こうして、自我の構造を明らかにする自我心理学が精神分析学の中心に位置するようになり、上述の2著を中心に、自我、エス、超自我の心的構造論が展開されるようになった。
自我の構造論があらわれるまで、精神分析学では神経症の治療理論を中心に、「無意識の欲望を意識が統制する」、あるいは「無意識が意識にのぼるのを意識が防衛する」というような構図のもとで意識と無意識の関係が考えられており、そこでは、防衛されるものは無意識、防衛するものは意識すなわち自我であるというように、意識と自我はほぼ重なりあう意味あいで考えられていた。しかし、フロイトの2つの著書が世にでてから、自我の防衛機能はかならずしも意識的なものではないこと、その一部は無意識的なものであることが理解されるようになった。 こうしてフロイトは、即座の欲求満足をめざし快感原則にしたがう無意識をエス(イド)とよぶ一方、このエスが幼児期に外界と接触することをとおして一部変形をうけ、そこが自我になり、この自我によって現実的な知覚や判断がおこなわれ、現実適応がはかられると考えるようになった。快感原則にしたがうエスは暴れ馬に、自我はその暴れ馬を調教し、統御し、のりこなす騎手になぞらえられる。
自我は現実を見すえ、現実を支配する規範や法や慣習など、社会の多数原理を考慮にいれて現実的な判断をおこなう。そのような自我の働きを監視し、それが適切であるかどうかを審査する上級の裁判官、検閲官の役割をはたすのが超自我である。つまり、超自我は規範や慣習、掟(おきて)や法を遵守する良心、あるいはそれに違反することをおそれる無意識的罪悪感に対応し、またそれを遵守することを理想とする自我理想に対応する。 この超自我は、男根期(→ リビドー)にある子供がエディプス・コンプレックス(→ コンプレックス)をのりこえるときに、禁止者ないし処罰者としての親に同一化し、その親をとりいれ、みずからの内に内面化することによって成立すると考えられた。したがって、親がきびしい規範をしめすことができなかったり、子供が親のとりいれに失敗するような場合には、厳格な超自我が成立しないことになる。 自我は、常に超自我のチェックをうけながら、奔放な無意識のエスを現実原則にのっとってただしく方向づけ、人格の安定をはかり、現実に適応して生きていく中心的な役割をはたす。これは視点をかえれば、自我は人格の中心にありながら、超自我とエスとの間にはさまれて、たえず脅威にさらされ緊張を強いられるということを意味する。それゆえ、だれもが自我の本来の働きから逸脱し、不適応におちいる可能性をもつ。 しかしフロイトは、強い自我によって緊張やストレスにたえ、現実適応をはかろうとするのが人間の本来の姿であり、神経症などの現実不適応は、自我がその本来の機能をはたさないからだと考えて、強い自我をはぐくむことを治療の目標にした。
© 1993-2009 Microsoft Corporation. All Rights Reserved. |
© 2009 Microsoft
![]() ![]() |