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エストニア

エストニア Estonia
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項目構成
V

環境問題

産業公害がエストニアの環境問題の中心となっている。電力の99.59%(2003年)が化石燃料をつかった火力発電である。オイルシェールを燃料とする発電所は二酸化硫黄を排出し、北東部地域に深刻な大気汚染をもたらした。これらの発電所にくわえ、化学工場や製紙工場をはじめとする産業施設が高濃度の二酸化硫黄や二酸化炭素などを排出し、これが子供の健康状態の悪化やバルト海の富栄養化の原因となっている。また、北部の針葉樹林は酸性雨の被害をうけている。全国各地の土壌や地下水が石油生成物で汚染されており、有機的な廃棄物で汚染された湖も多い。産業廃棄物によるリガ湾の汚染は深刻である。

だが、エストニアでは環境に対する意識は高い。政府は環境に関するいくつかの法案を成立させ、リン鉱石の採掘を制限した。森林は年0.37%(1990-2005年)の割合でふえており、総陸地面積の30.9%(2007年)が保護地域に指定されている。

VI

政治

現在のエストニアは、1918~40年のエストニア民主共和国を継承するものである。92年の国民投票によって承認された新憲法にもとづき、一院制の議会が設置されている。定員101名の議員は、比例代表による直接選挙によってえらばれ、任期は4年である。ただし、議員の属する政党が全体の5%以上の票を獲得することが条件になる。国家元首である大統領は国会議員や知事らによる間接選挙で選出され、行政権の一部が付与される。任期は5年。他のバルト諸国と同じく、エストニアは独立国家共同体(CIS)には加盟していない。

VII

歴史

1

スウェーデンやロシアなどによる支配

1世紀のローマの歴史家タキトゥスによると、エストニア人はゆるい同盟関係でむすばれた小国家を形成していたという。1219年、デンマーク王バルデマール2世がエストニア北部に侵入してタリン・レベリ城をきずき、レベリ司教区を設立した。1343~45年に蜂起(ほうき)がおこると、バルデマール4世はエストニア北部の領土を、すでにエストニア南部(リボニア)を支配していたドイツ騎士修道会に売却した。ドイツ騎士修道会とハンザ同盟の商人は沿岸に交易所をもうけ、ドイツ騎士修道会が解体する1561年までエストニアを支配した。タリンとエストニア北部の貴族はスウェーデンの保護をもとめてその支配下に入り、タルトゥなど南部地域の一部はポーランドに領有された。1645年までにエストニア全土がスウェーデンの支配下に入った。70年代から80年代にスウェーデンは改革を断行して住民の窮状を改善したが、貴族の反感を買った。

スウェーデンは1721年までエストニアを統治した。21年、ニスタット和約によってエストニアはロシア帝国に割譲され、ロシア皇帝ピョートル1世(在位1682~1725)は貴族の特権を復活させた。1816~19年に、ロシア皇帝アレクサンドル1世はエストニアの農奴制を廃止した。19世紀半ば以降、農民に土地を購入する権利がみとめられ、強制労働制度は抑制された。同時にエストニアの民族意識が高まった。

2

ソ連の構成共和国に

日露戦争(1904~05)中にロシアの首都サンクトペテルブルクで血の日曜日事件がおこると、協同組合運動と教育運動が活発化し、エストニアの民族意識は新聞と近代文学の発達によってさらに高揚した。1917年のロシア革命によってエストニアに自治がもたらされ、ドイツ軍の援助でロシアの革命勢力がしりぞけられて、18年2月24日には独立共和国が宣言された。ドイツ軍が撤退すると、ロシアの革命勢力が侵攻を再開したが、20年2月2日、タルトゥでロシア革命政府とエストニアとの間に和平条約が調印された。ロシアはエストニアに対する主権の主張をとりさげ、エストニアの独立を承認した。その結果、新しい共和国は、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、アメリカなどの国々に正式に承認され、エストニアは国際連盟に加盟した。

1940年6月、ソ連軍がエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国を占領した。7月に共産党のみを公認とした選挙がおこなわれ、8月6日、エストニアはソ連の構成共和国になった。41年にナチス・ドイツ(ナチズム)がソ連を攻撃し、エストニアはナチス・ドイツ軍に占領された。44年9月、ソ連軍の侵攻によりナチス・ドイツ軍は撤退したが、6万人以上のエストニア人がスウェーデンとドイツに逃亡した。

3

独立へ

1980年代末にエストニアは、ラトビア、リトアニアとともに独立にむかってうごきはじめた。91年にソ連で共産主義政権が崩壊し、9月6日にソ連政府は正式にバルト三国の独立を承認、同月、バルト三国は国際連合に加盟した。92年6月の国民投票で新憲法が承認され、9月の議会選挙では、民族派の「祖国」が第1党となった。10月には、議会が選出したレンナルト・メリが、大統領に就任した。メリ大統領は2001年まで2期つとめた。

独立後も、エストニアにはロシアとの国境問題がのこっていた。エストニアは、現在の共和国は1918~40年に存在した共和国の再生であると考え、45年にロシア・ソビエト社会主義共和国に割譲されたエストニア領土の返還をもとめている。一方、ロシアの主張は、かつてのエストニア共和国はソビエト連邦の一員となった時点で消滅しており、ソ連時代の境界を国境とする、というものである。92年にはじまった両国の協議は遅々としてすすまず、エストニア政府は問題地域の一部に居住するエストニア語住民に対してパスポートを発行した。これに対し、ロシアは、ロシア領土を併合しようとする行為だとして非難した。94年夏、ロシアはソ連時代の国境沿いに標柱を建設し、国境論争をさらに激化させた。

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