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エストニアは、バルト諸国をはじめとしてヨーロッパ諸国など他国との関係を強化しようとつとめている。1993年9月、ラトビア、リトアニアと自由貿易協定を締結し、輸入関税を撤廃してビザと税関法を統一した。94年2月には、NATO(北大西洋条約機構)と「平和のためのパートナーシップ」協定の枠組み文書に調印した。 1994年8月、ロシア軍がエストニアから撤退し、エストニアは、同国内の旧ソ連軍関係者の居住申請をみとめることに同意。95年9月には、北西部にのこっていたロシアのパルディスキ海軍基地もエストニアに返還された。94年9月、タリンからスウェーデンのストックホルムにむかうフェリー「エストニア号」がバルト海で沈没し、900人以上が死亡した。この事故の原因は、船首ドアの故障とされ、第2次世界大戦後のヨーロッパで最悪の交通機関の事故となっている。 1994年9月、議会は、マルト・ラール内閣の不信任案を可決した。ラール首相は民族派「祖国」のメンバーである。10月、同じく「祖国」のメンバーで、前環境相のタランドが暫定首相に指名され、95年3月までつとめた。3月に実施された議会選挙では独立後の改革を推進していた民族派が大敗し、かわって左派の連立政権が成立した。首相には連合党代表のビャヒが指名された。ビャヒ首相は不動産購入をめぐるスキャンダルで97年2月に辞任し、3月、同じ連合党のマルト・シーマンが首相に就任し、新内閣が発足した。連合党政権のもとで西側との関係強化はすすみ、97年7月には、EUのヨーロッパ委員会が、エストニアをEU加盟交渉対象国に指定した。 1997年3月、メリ大統領が訪日、99年11月には日本との間でビザの相互免除をとりきめた。99年3月におこなわれた総選挙で中道党が第1党となったが、メリ大統領はラール元首相を首相に指名し、「祖国」、穏健党、改革党による中道右派連立政権が発足した。同年11月にWTO(世界貿易機関)へ加盟。2001年9月の大統領選挙では、旧共産党幹部のアルノルド・リューテルが当選。同年末に辞意表明したラール首相の後任として、02年1月に改革党のシイム・カラスが指名・承認され、中道党との連立内閣が発足した。 2003年3月の総選挙では、中道党と右派の共和党が同議席で第1党となったが、連立工作の結果、共和党、改革党、国民同盟の連立政権が発足、ヨハン・パルツ共和党党首が首相に就任した。 この間、NATOが、2002年11月にバルト三国など中・東欧7カ国の新規加盟を決定、EUも、同年12月にバルト三国など10カ国の加盟を決定した。EU加盟の是非を問う国民投票は03年9月に実施され、約67%の賛成で承認された。そして、04年3月にNATO、5月にEUへの正式加盟が実現した。同年6月にはヨーロッパ通貨制度の為替相場メカニズム(ERM 2)に参加し、07年1月のユーロ参加をめざしたが、インフレ基準が達成できず、06年にユーロ導入の延期を表明した。
EU加盟後、税率の引き上げによる物価の高騰などで、与党共和党の支持率が急落した。2005年に入ると、外務省の機密文書紛失問題や法相不信任で政局は混迷し、3月、パルツ首相が辞任表明した。リューテル大統領は首相候補に改革党党首アンドルス・アンシプを指名、議会での信任をへて、4月、改革党、国民同盟、中道党によるアンシプ連立政権が発足した。 2005年5月、エストニアは、独立以来の課題となっていたロシアとの国境条約に調印した。NATOとEUに加盟するため領土問題の解決をいそいだエストニアは、ソ連時代の境界を国境線とする大枠に合意し、1999年に仮調印していた。2005年6月、エストニア議会は条約の批准を承認したが、その際、批准文書の前文にソ連の併合にふれた一文をつけくわえたことからロシアが反発、条約への署名を撤回する大統領令が出された。06年9月の大統領選挙では、現職リューテルを小差でくだして、西欧志向のトーマス・イルベスが選出された。
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