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    第二次世界大戦 (だいにじせかいたいせん World War II)は、 1939年 から 1945年 にかけて 連合国 と 枢軸国 の二つの陣営で行われた人類史上二度目の 世界大戦 。主な戦場は ヨーロッパ戦線 と アジア・太平洋戦線 の二つ。両陣営合わせて、数千万人の死者を ...

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    第2次世界大戦 1939(昭和14)年9月1日~1945(昭和20)年9月2日 World War II 1939(昭和14)年9月1日~1945(昭和20)年9月2日

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第2次世界大戦

第2次世界大戦 だいにじせかいたいせん World War II
百科事典項目
項目構成
1

ドイツの優勢

ドイツ軍の攻撃にそなえ、ポーランド軍は100万人あまりを動員したが、装甲部隊の数は少なく、航空機の半数は旧式機だった。開戦初頭、ドイツ空軍はポーランド空軍を撃滅して制空権を確保するとともに、戦車を中核とする快速装甲部隊が2方面から急進撃し、1939年9月19日までにポーランド軍を撃滅した。9月17日にはソ連軍も東方から侵攻し、東西から攻撃されたポーランドは10月6日に降伏した。空軍の支援のもとに装甲部隊が急進撃して敵を包囲・撃滅するドイツ軍の戦法は「電撃戦」とよばれ、以後の戦闘の勝敗を左右することになった。

この間、西部戦線では、ヒトラーの予想どおりイギリス、フランス軍の戦意はとぼしく、両国によるドイツ攻撃はなされず、主力のフランス軍はドイツ、フランス国境にきずかれた巨大な防衛陣地マジノ線を固守したままだった。イギリス、フランスはポーランドを見殺しにしたのである。アメリカの新聞は西部戦線の状況を「奇妙な戦争」と名づけた。

2

北欧とベネルクスへの侵攻

いっぽう、ソ連は1939年11月30日にフィンランド攻撃を開始した(ソ・フィン戦争)。マンネルヘイム元帥ひきいる劣勢のフィンランド軍はたくみに抗戦したが、翌年の3月12日にソ連と講和し、カレリヤ地峡その他をソ連に割譲した。

ドイツは中立国スウェーデンからの鉄鉱石輸入を確保するため、デンマークおよびノルウェー占領を決意し、1940年4~6月に北欧侵攻作戦をおこなった。デンマークは即座に降伏したが、イギリス、フランス連合軍に支援された劣勢のノルウェー軍は善戦した。しかし、ドイツ軍のベネルクス三国侵攻に対応するため連合軍が撤退したため、ノルウェー軍は6月10日に降伏、国王政府はイギリスにのがれ、ノルウェー・ナチスの指導者クビスリングを首班とする傀儡(かいらい)政権が樹立された。

ヒトラーは、1940年5月10日に西部戦線で大攻勢を開始した。作戦の主目的はベネルクス三国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)の占領と、イギリス、フランス連合軍主力の撃滅にあった。ドイツ軍の136個師団、戦車2500台、航空機3200機に対する連合軍の戦力はほぼ互角だったが、連合軍は防衛戦略に固執し、積極的な攻撃作戦を断念していた。

1940年5月14日、ドイツ軍はマンシュタイン将軍立案の作戦にもとづき、戦車通行が不可能と思われたベルギーのアルデンヌの森から装甲部隊の大群を突撃させてフランス北東部の大西洋岸に進出し、ベルギーのイギリス、フランス軍を孤立させ、マジノ線との連絡を遮断した。同時にドイツ軍空挺部隊がオランダ、ベルギー領内に降下し、重要拠点を奪取するとともにベルギーの大要塞エバン・エマールを攻略した。

オランダはドイツ空軍によるロッテルダム爆撃で3万人もの市民の死傷者をだしたあとの1940年5月15日に降伏し、ベルギーも勇敢な抵抗をつづけたあと、5月28日に降伏した。いっぽう、フランス北東部の大西洋岸のダンケルク周辺におしこめられたイギリス、フランス連合軍は必死の脱出作戦をこころみ、6月4日までに約34万の兵(3分の2はイギリス兵)がイギリスにのがれた。

3

フランスの敗北

フランスへの進撃は1940年6月5日に開始され、快速装甲部隊を先鋒とするドイツ軍はパリにむかって猛進した。指揮系統を寸断され、士気のおとろえたフランス軍は退却し、ドイツ軍は6月14日にパリに入城した。この間の6月10日、フランスの敗北を確信したイタリアがイギリスとフランスに宣戦布告、アルプスでフランス軍と交戦した。フランスでは6月16日、レノー首相が退陣し、後任に第1次世界大戦の英雄ペタン元帥が就任した。いっぽう、ド・ゴールにひきいられた抗戦派はイギリスにのがれて「自由フランス」を結成し、戦いを継続する決意を表明した。

1940年6月17日、ペタンはドイツに休戦を申し込み、6月22日にパリ北方のコンピエーニュの森に設置された列車の中で休戦協定が締結された。この列車は、ドイツが第1次世界大戦の休戦協定に調印したときに使用されたものだった。この結果、ドイツはパリをふくむ北フランスと大西洋岸を支配し、ペタンは南東部のビシーを首都とする政府(ビシー政権)を樹立してドイツに協力することになった。

4

イギリス侵攻の失敗

こうして1940年6月、中立国のスペイン、ポルトガル、スイス、スウェーデンと、敵対するイギリスをのぞくヨーロッパの大半はドイツの支配に服し、ヒトラーは権力の頂点をきわめたかにみえた。ヒトラーはその人種理論からしてもイギリスとの戦いには乗り気でなく、イギリスが講和受諾にかたむくことを期待した。しかし、新首相チャーチルにひきいられたイギリスは徹底抗戦の態度を表明した。

1940年7月16日、ヒトラーはイギリス本土上陸作戦(シー・ライオン作戦)準備を指示し、作戦成功の前提となるイギリス海峡の制空権を確保するため、イギリスに対する大規模な空の戦い(バトル・オブ・ブリテン)を8月半ばから開始した。

以後、ドイツ空軍は9月7日のロンドン初空襲をはじめ、イギリスの諸都市、港湾、空軍基地などを猛攻したが、最新兵器レーダーを配備したイギリス空軍のはげしい迎撃をうけて1700機をこえる損害をだした。またイギリス空軍は、逆にドイツ工業都市への爆撃もおこなって反撃した。

ヒトラーは10月にイギリス上陸作戦延期を指示して事実上断念、イギリス国民の士気は高揚した。以後ドイツは、イギリス諸都市への夜間の無差別爆撃に方針を転換、爆撃は翌1941年7月ごろまで断続的につづいたが、これは、軍事的勝利のためというよりも、心理的圧迫をねらったものにすぎなくなっていった。

5

ソ連攻撃の準備

ヒトラーはイギリスが抗戦可能なおもな理由をソ連の健在にあるとみなし、戦略を転換して宿願であるソ連打倒の決意をかためた。この時期、フィンランドや東南ヨーロッパ(ルーマニア、ブルガリア)での権益をめぐるドイツ、ソ連間の対立が激化しており、独ソ不可侵条約の合意事項は急速にくずれつつあった。最後の調整のために1940年11月12~13日にソ連外相モロトフをまねいてベルリンでおこなわれた首脳会談でも、ドイツとソ連の対立は解消されず、ヒトラーのソ連攻撃の決意は不動のものとなった。

1940年12月18日、ヒトラーは翌年5月までにソ連攻撃作戦の準備をととのえることを命令した。この作戦には中世の十字軍で活躍したドイツ皇帝フリードリヒ1世の愛称「バルバロッサ」という暗号名がつけられた。ヒトラーの計算では、ソ連は一撃で打倒され、広大なソ連領の獲得によってイギリスとの長期戦をたたかいぬく経済的基盤も確保されるはずだった。

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