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それに先だつ1940年9月27日、ヒトラーはアメリカのヨーロッパ戦争への介入を牽制するため、日本、イタリアと三国同盟を締結するとともに、ソ連攻撃にそなえてルーマニア、ハンガリー、ブルガリアに三国同盟への加盟を強要した。11月にハンガリー、ルーマニアが加盟し、翌年3月にはブルガリアがこれにつづいた。ところが、40年10月にムッソリーニがバルカンでの勢力拡大をめざしてアルバニア、ギリシャを攻撃したため、ヒトラーの予定表に大幅な狂いが生ずることになった。 侵攻したイタリア軍はイギリス軍に支援されたギリシャ軍に撃退され、ヒトラーはイタリア救援のためにバルカン平定作戦を実行しなければならなかった。1941年5月までつづいたバルカン作戦でドイツ軍はギリシャ全土とクレタ島を制圧し、イギリス軍を撤退させた。この戦闘でドイツ軍の領内通過をこばんだユーゴスラビアも即座にドイツ軍に占領されたが、以後チトーひきいるパルチザンが頑強な抵抗を終戦まで続行することになった。バルカンでの戦闘はドイツの勝利におわったが、ソ連攻撃は1カ月ほど延期され、この遅れはのちに重大な意味をもつことになる。
1941年にはいると、アメリカはまだ中立をまもっていたものの、3月に武器貸与法を成立させて、イギリスを中心とする連合国に積極的な経済支援を開始し、7月にはアイスランドに海兵隊を進駐させて大西洋を横断する連合国商船の護衛をひきうけ、ドイツに敵対する姿勢を強めながら、日本に対しても強硬な態度を表明した。日米関係は日中戦争やフランス崩壊に乗じて前年の9月に日本が強行したフランス領北インドシナへの進出および三国同盟の締結により、悪化の一途をたどっていたが、日本はヨーロッパでのドイツの勝利にまどわされ、東南アジアにおけるフランス、オランダなどの植民地奪取をめざした(→ 太平洋戦争)。
1941年4月13日、日本はソ連との間に日ソ中立条約をむすんで背後の安全を確保し、石油、スズ、ゴムなどの天然資源の宝庫であるフランス領南インドシナ、イギリス領マレー、オランダ領東インド諸島への積極的な侵出を計画し、7月28日に南インドシナを占領した。アメリカは対日石油輸出全面禁止という強硬措置で応じた。石油の80%をアメリカからの輸入に依存する日本は、戦争か支配地域からの全面的撤退かの選択をせまられ、10月に成立した東条英機内閣は、外交的解決ができなければアメリカと開戦する決意を最終的に確認した。
ソ連国境では300万をこえるドイツ軍がソ連攻撃の作戦配置についていた。1941年6月22日未明、北方・中央・南方の3個軍集団からなるドイツ軍は、バルト海から黒海までの1600kmの戦線でいっせいにソ連領にむかって進撃を開始した。バルバロッサ作戦の戦略目標は北海のアルハンゲリスクからカスピ海のアストラハニまでの地域(AAライン)の占領におかれ、北方軍集団はレニングラード(現、サンクトペテルブルク)を、中央軍集団はモスクワを、南方軍集団はキエフを攻略目標として進撃をつづけた。 初戦の電撃戦で、ドイツ軍はソ連軍を急襲し、多数の捕虜をえて広大な地域を占領した。1941年6月27日、ソ連が連合国に加入し、7~8月に、イギリスはソ連と援助協定をむすび、アメリカは武器貸与による支援をおこなったが、ソ連の敗色は濃厚だった。9月半ばまでに、ドイツ軍はレニングラードを包囲し、キエフを奪取してクリミア方面に進撃しつつあった。首都モスクワの陥落もさけられないかにみえた。 しかし、初戦の勝利に慢心したヒトラーは軍首脳の反対をしりぞけ、天然資源の豊富なウクライナとカフカス地方占領を優先したため、モスクワ攻撃は後回しにされた。1941年10月2日、中央軍集団はモスクワ攻撃を再開、せまりくるきびしい寒さにくるしみながら12月上旬モスクワ近郊に到達した。ドイツ軍の1部隊はモスクワから32kmにまで肉薄したが、冬の寒さがそれ以上の進撃をはばんだ。短期決戦による勝利を確信していたドイツ軍には冬季戦の準備がなかったのである。 ドイツ軍の進撃が停滞すると、スターリンは1941年12月5日に総反撃を命令した。軍司令官ジューコフ将軍は、シベリアからの精鋭部隊と多数の予備軍を指揮して戦力の低下したドイツ軍を猛攻し、全戦線で攻勢に転じた。いっぽう、ヒトラーは動揺するドイツ軍に死守命令を発してソ連軍の攻勢を阻止し、レニングラード包囲とウクライナ、クリミアでの作戦を続行したが、短期決戦にかけたヒトラーの期待は無に帰し、東部戦線は泥沼の持久戦となった。
この間、日本は春以来のアメリカとの外交交渉を断念し、開戦を決意した。日本の作戦計画の目標は中部太平洋のアメリカ海軍戦力とシンガポールを基地とするイギリス極東戦力を撃滅し、フィリピンとオランダ領東インド諸島を占領して一大勢力圏を構築することにあった。1941年12月8日、日本は空母6隻を中心とする海軍機動部隊を出撃させ、ハワイのオアフ島の真珠湾を奇襲してアメリカ太平洋艦隊に大損害をあたえ、太平洋戦争に突入した。同日、アメリカ、イギリスなどの連合国が日本に宣戦布告すると、12月11日にはドイツ、イタリアがアメリカに宣戦布告し、戦争はヨーロッパをこえて世界大戦に発展した。 東アジアと太平洋方面の戦域で日本軍は連戦連勝の勢いをしめし、1941年末までにイギリス領の香港、アメリカ領のグアム島、ウェーク島、ギルバート諸島(現キリバス共和国)を占領し、イギリス領のマレー、ビルマ(現ミャンマー)、ボルネオ、アメリカ領のフィリピン、オランダ領の東インド諸島に侵攻した。翌年2月にはアジアにおけるイギリスの重要拠点シンガポール要塞が陥落し、3月には東インド諸島の全オランダ軍が降伏し、5月7日にはフィリピン防衛のアメリカ軍も降伏し、フィリピン防衛軍マッカーサー将軍はオーストラリアへのがれた。 さらに、日本は勢力拡大をはかり、北方ではアリューシャン列島、中部太平洋ではミッドウェー島、南方ではオーストラリアと連合国との連絡をたつため、ニューギニア南東端のポートモレスビー攻略に着手した。 アメリカは日本の進出を阻止するため、1942年5月7~8日に南西太平洋の珊瑚(さんご)海で史上初の空母決戦をいどんだ。アメリカは空母1隻をうしなったが、日本海軍機動部隊に損害をあたえ、ポートモレスビー攻略を断念させることに成功した(珊瑚海海戦)。ついで6月5日のミッドウェー海戦で日本海軍は大敗し、主力空母4隻をうしなった。アリューシャン方面では、6月8日までに日本軍はアッツ、キスカ両島の占領に成功したが、ミッドウェーでうけた打撃を回復することはできなかった。 ミッドウェー海戦は空母を中心とする戦力が海戦の勝敗を決することを証明した。経済力と工業力におとる日本にとって、空母4隻の喪失は回復不可能な損害となり、以後の戦闘の主導権はアメリカにうつることになった。
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