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ヨーロッパでの海戦は、ドイツの潜水艦(Uボート)による連合国に対する通商破壊戦とともに開始された。1943年夏までドイツの潜水艦は大きな戦果をあげたが、それ以後は護衛艦と航空機に援護された護送船団が出現し、逆にUボートの被害が激増した。終戦までに作戦に投入された830隻のUボートのうち、784隻がうしなわれた。制海権が連合国にうつる一方で、連合国はアメリカの巨大な造船力にささえられて、Uボートによって撃沈される以上の大量の船舶を建造した。大戦中にUボートは2000万トンをこえる連合国商船を撃沈したが、連合国は4500万トンもの船舶を建造した。 太平洋方面では、真珠湾の奇襲以後しばらくは日本海軍の優位がつづいたが、1942年6月のミッドウェー海戦で日本海軍は主力空母4隻をうしなって、戦局はアメリカの優位にかたむいた。42年8月~43年2月のガダルカナル島攻防をめぐる数回のソロモン海戦で、日本は多くの軍艦と航空機をうしない、太平洋の制海権と制空権をうばわれた。44年6月のマリアナ沖海戦と10月のレイテ湾海戦で日本海軍は空母と航空機の大半をうしない、アメリカ軍の進攻を阻止する組織的な戦闘力をうしなった。 ヨーロッパでの空の戦いは、1943年以降、アメリカ第8空軍がイギリスの各基地に集結し、イギリス空軍との協力体制を確立して攻勢に転じた。アメリカ空軍はB-17重爆撃機をもちいてドイツ各地の軍需工場、空軍基地に対する昼間爆撃を、イギリス空軍はランカスター重爆撃機で夜間の地域爆撃を遂行した。イギリス空軍による地域爆撃は都市への無差別爆撃となり、43年7月のハンブルク空襲では、同市の70%が破壊されて3万人以上の市民が死んだ。同じく45年2月のドレスデン空襲でも多数の市民が犠牲となった。 アメリカ空軍の昼間爆撃は、ドイツ空軍のジェット戦闘機の迎撃や対空砲火にあって大きな損害をだしたが、1944年以後は、航続距離の長いP-51戦闘機などの護衛で制空権を確保し、ドイツ各地の軍事や産業の施設を爆撃、軍需生産に壊滅的打撃をあたえた。ドイツはジェット推進のV1号飛行爆弾や超音速のV2号ロケット爆弾によるイギリス空襲で応じたが、発射数は少なく、イギリスに決定的な打撃をあたえられず、空の戦いでも連合国に敗北した。 太平洋でも、1943年以降、アメリカ軍が制空権を確保し、翌年6~8月のマリアナ諸島の占領とともに、B-29重爆撃機による日本本土空襲を開始し、主要軍需工場、都市の大半に大打撃をあたえた。45年3月10日の東京大空襲では都市部の約40%が破壊され、多数の市民が死傷した。さらに、アメリカは「マンハッタン計画」という暗号名をつけた原爆開発計画を42年から本格的に推進し、45年7月16日にニューメキシコ州アラモゴードで最初の原爆実験に成功した。対人殺傷兵器として史上初の原爆が広島(1945年8月6日)、長崎(同年8月9日)に投下され、両市で30万人をこえる市民が犠牲となり、戦争の様相を一変させた(→ 核兵器)。
カサブランカ会談の決定にもとづいて、連合軍は1943年7月10日にシチリア島に上陸し、8月17日にシチリアでのドイツ、イタリア軍を制圧した。
この間の1943年7月25日、ムッソリーニが議会と国王によるクーデタで失脚し、9月8日にイタリア臨時政府は連合国と休戦協定をむすんだ。枢軸同盟の一角がくずれたのである。9月3日、連合軍はイタリア本土に進攻し、イタリア防衛のドイツ軍と激戦を展開した。1944年5月18日、連合軍はローマへの進撃をはばむ難攻不落の要塞モンテ・カッシーノを奪取し、6月4日にローマに入城、さらに8月には、イタリア北部にきずかれたドイツ軍最後の防衛線であるゴシック線に到達した。
東部戦線では1944年6月22日の白ロシア奪還作戦とともに、全戦線にわたってソ連軍の大攻勢が開始された。7月3日、ソ連軍はドイツ中央軍集団を蹂躙(じゅうりん)しながら白ロシア(ベラルーシ)の首都ミンスクを解放し、さらに前進してリトアニアの首都カウナスを奪取し、8月29日に東プロイセン国境にせまり、ポーランドへの進撃体制をととのえた。東欧でもソ連軍は進撃をつづけ、8~9月にルーマニアとブルガリアを、10月にはチトーのひきいるパルチザン部隊とともにユーゴスラビアをドイツの支配から解放して戦後の東欧進出の足場をきずいた。
この間、西部戦線ではアイゼンハワーを最高司令官とする連合軍のノルマンディ上陸作戦が開始されていた。1944年6月6日に上陸した連合軍はドイツ軍をうちやぶって海岸橋頭堡(きょうとうほ)をかため、6月末までに兵員85万人、車両15万台を陸上げしてパリへの進撃を開始した。7月20日、ドイツ国内では国防軍将校グループによるヒトラー暗殺の試みがおきたが、ヒトラーは奇跡的に難をのがれ、徹底抗戦の決意をしめした。 連合軍は進撃しつづけ、1944年8月25日にパリを解放してドイツ国境への前進を開始した。ドイツ軍は後退したが、ヒトラーは連合軍の戦線の拡大と補給事情の悪化を見ぬき、12月16日にベルギーのアルデンヌ山地から装甲部隊による最後の攻撃(バルジの戦)を決行した。最初、ドイツ軍の攻撃は成功したが、圧倒的な戦力の連合軍は反撃し、12月末にドイツ軍は退却、西部戦線最後の攻勢は失敗に帰した。
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