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1945年にはいると、西側連合軍とソ連軍は東西からドイツ国内にせまり、3月にはアメリカ、イギリス軍がライン川をわたり、さらに進撃して4月中旬にエルベ川に到達、4月25日にトルガウでソ連軍と合流した。この間、ソ連軍は4月16日にオーデル川をこえてベルリン攻撃を開始し、4月24日にはベルリンを包囲した。ヒトラーは最後までベルリンにふみとどまり、4月12日のルーズベルトの死による西側連合国とソ連との不和を期待したが、ついに4月30日に総統官邸の地下壕で自殺し、ナチス・ドイツは崩壊した。 イタリアでも1945年4月28日にムッソリーニがイタリア人パルチザンに銃殺され、5月2日にイタリアに配置されたドイツ軍も降伏した。5月7日、ヒトラーの遺言で後任に指名されたデーニッツ提督はランスのアイゼンハワーの司令部で無条件降伏に応じ、ヨーロッパでの戦争は終結した。ドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連4カ国に分割統治され、戦後の冷戦の進行とともに東西に分裂する運命をたどることになる。
アジア・太平洋戦域では1944年にはいると、日本軍の占領地域からの撤退がはじまった。10月以降、日本軍はビルマから撤退をはじめ、連合軍は翌年5月に全ビルマを奪還した。アメリカ軍は44年6月にマリアナ諸島に上陸し、8月初めまでにサイパン、グアム、テニアン島を占領した。さらに10月以降、レイテ島上陸に成功してフィリピンに進攻した。この間、日本海軍は6月と10月にマリアナ沖とレイテ湾でアメリカ海軍に決戦をいどんだが、大敗し、日本海軍の組織的抵抗はおわった。 1945年3月、アメリカ軍はフィリピンをほぼ制圧し、2~3月にかけて硫黄島を奪取、4月1日には沖縄に上陸した。日本軍はフィリピン戦ではじめてもちいた神風攻撃や沖縄島民を総動員してのはげしい抵抗をつづけたが、6月23日に沖縄全島で日本軍の組織的抵抗は終結した。マリアナ諸島と硫黄島の陥落は、アメリカ空軍による日本本土への本格的空襲をまねいた。グアム、サイパンを基地とするアメリカ軍のB-29重爆撃機は、硫黄島基地の戦闘機に護衛されて日本の諸都市、軍需工場などを破壊し、南方資源地帯との連絡をたたれた日本の敗北は時間の問題となった。
この間の1945年2月4~11日、クリミア半島のヤルタで、アメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソ連首相スターリンの首脳会談(ヤルタ会談)が開かれ、ドイツの戦後処理とともにソ連の対日参戦がはなしあわれた。スターリンはサハリン(樺太)南部、千島列島などの獲得と交換に、ドイツ降伏後90日以内に日本と開戦することを約束した。6月26日にはサンフランシスコで開かれていた国際連合創設会議で国際連合憲章が調印され、アメリカ、ソ連を中心とする戦後世界の国際秩序の輪郭がしめされた。さらに、7月26日に連合国はポツダム宣言を発し、日本に無条件降伏をせまった(→ ポツダム会談)。
日本はポツダム宣言を黙殺したが、1945年8月6日、9日の広島および長崎への原爆投下と8月8日のソ連の対日参戦によって命運はつきた。8月14日、日本は正式に降伏を決定(翌15日発表)し、9月2日に東京湾に停泊するアメリカ戦艦ミズーリ号艦上において連合国代表マッカーサーとの間で降伏文書に調印した。ここにアジア・太平洋での戦争も終結した。
第2次世界大戦は人類史上空前の大戦争だった。戦場は全世界に拡大し、参戦諸国は戦勝国も敗戦国も膨大な人的・物的損害をこうむった。主要参戦国の死亡者数を軍人・市民にわけて概観すれば、ソ連(1300万・700万)、中国(350万・1000万)、ドイツ(350万・380万)、ポーランド(12万・530万)、フランス(25万・36万)、イギリスおよびイギリス連邦(45万・6万)、イタリア(33万・8万)、日本(170万・38万)、アメリカ(軍人40万)など、膨大な数に達する。 大戦の結果、イギリス、フランスに代表されるヨーロッパの伝統的大国は衰退し、アメリカ、ソ連の2大国による世界のバランス・オブ・パワー(勢力均衡)の新たな枠組みが形成され、アジア、アフリカでは民族主義が高揚して反植民地闘争が激化し、多くの独立国家の誕生をもたらした。大戦の終結は、ファシズム打倒という共通の目的を達成したアメリカ、ソ連の結束を解消し、冷戦を加速させることになった。
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