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13世紀以降、イタリア半島を中心にイタリア語で書かれた文学。
13世紀以前、イタリアの文章語はラテン語であり、年代記、史詩、英雄伝説、聖人伝、宗教詩、教訓書などの執筆にもちいられた。そのほか、多くの初期のイタリアの詩人たちがフランス語やプロバンス語(→ プロバンス)で詩作し、自分たちの詩形や題材のほとんどを外国文学からかりた。もっとも重要な詩形のひとつがプロバンスのカンツォーネである。題材は、古代の英雄、アーサー王の円卓騎士たち(→ アーサー王伝説)、シャルルマーニュ(カール大帝)と12勇士の功業だった。シャルルマーニュの武勲詩は最初、フランス語とベネツィア方言の混合語で登場し、のちにトスカーナ方言で書かれてイタリア化された。武勲詩は、イタリアで長く人気をえて、後世のイタリアの詩人たちに騎士道のテーマを提供することにもなった。
俗語としてあつかわれていたイタリア語をはじめて文学の言語にしたのは、シチリア派の詩人たちであった。シチリア王位にあったホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世は、1220年に神聖ローマ皇帝に推挙されたため、シチリアは広大な帝国支配の拠点となった。イタリアで生まれそだったフリードリヒ2世は、この地を13世紀ヨーロッパの一大文化中心地にするべく、イタリア各地やプロバンスから学者や芸術家をパレルモの宮廷にまねき、シチリア派とよばれる詩派を庇護(ひご)して、イタリア語による文学の発達を奨励したのである。 ただしシチリア派の詩は、イタリア語で書かれている点をのぞいては、まったくイタリア的な特徴をもっておらず、大部分は当時のプロバンス詩を模倣した、宮廷風恋愛詩であった。この派を代表する詩人はソネット形式を創始したジャコモ・ダ・レンティーニである。
1254年のホーエンシュタウフェン朝の滅亡後、イタリア詩の中心地は、グイットーネ・ダレッツォが活躍したアレッツォと、グィード・グイニツェリの新風で有名なボローニャ、この2つの都市にうつった。グイットーネ・ダレッツォと彼の追随者たちは、すぐれた詩をほとんど生みだしていない。 一方、グイニツェリの詩は、プロバンスやシチリア派の詩のように、宮廷ではぐくまれた世俗的で当世風の愛を称揚することはなかった。かわりに、崇拝する女性への愛が、男の精神を浄化し、魂を高めて神の美を理解させる、という愛をえがいた。このプラトン的な愛をうたうグイニツェリの詩は「新しい優美な様式」として、のちに清新体とよばれるようになる。 イタリア最大の詩人ダンテは清新体派の代表的な詩人でもあり、1293年ごろ、最初の作品「新生」をこの新しい詩体で書いた。散文体に抒情詩をおりまぜたこの作品で、最愛のベアトリーチェへの理想化された愛をうたいあげた。ダンテのほかグィード・カバルカンティ、チーノ・ダ・ピストイアらによって、清新体派はフィレンツェを中心に、イタリア文学史上最大の詩派のひとつに発展した。 シチリア派の活動とほぼ同時期に、中部イタリアのウンブリア地方で、托鉢(たくはつ)修道会フランシスコ会をおこしたアッシジの聖フランチェスコが、すべての被創造物を賛美する詩「太陽の賛歌」をイタリア語で書いた。彼につづくフランシスコ会士の詩人としては、「スターバト・マーテル(聖母の嘆き)」で有名なヤコポーネ・ダ・トディがいる。
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