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  • イーゴリ・ストラヴィンスキー - Wikipedia

    ストラヴィンスキー は、この項目へ 転送 されています。競走馬については「 ストラヴィンスキー (競走馬) 」をご覧ください。 イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー ( ロシア語: И́горь Фёдорович Страви́нский 、Igor Fyodorovitch Stravinsky ...

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    火の鳥 (ひのとり、 仏語: L'Oiseau de Feu 、 露語: Жар-птица ) は イーゴリ・ストラヴィンスキー が作曲した、ロシアの民話に基づく1幕2場の バレエ音楽 。 リムスキー=コルサコフ に献呈された。 オリジナルのバレエ音楽と3種類の組曲があり、 ...

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ストラビンスキー,I.

ストラビンスキー Igor Stravinsky
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

1882~1971 20世紀音楽の進路に決定的な方向づけをおこなったロシア出身の作曲家。ペテルブルグ郊外のオラニエンバウム(現ロモノソフ)で、帝室歌劇場づきのバス歌手を父として生まれる。長じてペテルブルグ大学法学部に入学。在学中、級友の父リムスキー・コルサコフと知りあい、作曲法と管弦楽法をまなんだ。

II

原始主義時代

1908年、その年につくられた管弦楽曲「花火」「スケルツォ・ファンタスティック」をきいた興行師ディアギレフがストラビンスキーの才能をみとめ、みずから主宰するバレエ・リュッス(ロシア・バレエ団)のパリ公演のための作曲を依頼した。こうして三大バレエ(「火の鳥」1910年初演、「ペトルーシュカ」1911年初演、「春の祭典」1913年初演)が書かれた。リズムの効果的な駆使によって生みだされる官能的な刺激、強い原色の色彩感にみちた管弦楽法、ロシア民謡風の素朴なメロディが好評を博して、最初の2作は大成功をおさめた。しかし3作目の「春の祭典」は初演当時、ニジンスキーの型破りな振付とけわしい不協和音、伝統的な拍節構造によらない自由なリズムが保守的な聴衆の怒りをかい、野次とブーイングでオーケストラの音もかきけされる騒ぎになった。しかし、印象主義の夢幻的であいまいな音楽にあきていたわかい聴衆には熱狂的にうけいれられ、ストラビンスキーは革命的な現代音楽の旗手と目されるようになった。肉感的な音響できく者に興奮をよびさますこの時期の様式は、原始主義とよばれている。

1914年、第1次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)でロシアに帰国できなくなり、スイスに難をさけた。戦中戦後には大規模な作品の上演はむずかしく、18年にはオーケストラの弦、金管、木管を代表する6楽器と打楽器、俳優3人、ダンサー1人で上演できる「兵士の物語」を作曲した。この曲をはじめ、「11楽器のためのラグタイム」(1918)、「ピアノ・ラグ・ミュージック」(1919)などスイス時代の作品にはジャズへの傾倒がみられる。

III

新古典主義時代

1920年、パリにもどったストラビンスキーは「春の祭典」の粗野な破壊力はロマン主義の名残にすぎないと気づき、ロシアの民話にもとづくバレエつきカンタータ「結婚」(1923年初演)を最後に原始主義をすてた。後期ロマン派の主情主義に対抗できるのは客観主義だと考え、23年ごろから17~18世紀の楽曲形式に強い関心をむけた。27年11月、イギリスの音楽誌上で新古典主義を宣言、「バッハにかえれ」とよびかける。また、演奏者は作曲者の意図に忠実にしたがうべきであり、みずからの解釈や「自己表現」をつけくわえてはならない、とも主張した。彼のこうした美学的信条は前衛作曲家の共感をよび、20世紀音楽の進路に大きな影響をおよぼした。

新古典主義を代表する作品にはオペラ・オラトリオ「エディプス王」(1927年初演)、メロドラマ「ペルセフォーヌ」(1934年初演)、バレエ音楽「ミューズをつかさどるアポロ」(1928年初演)などがあり、いずれも原始主義時代のディオニュソス的激情とは対照的なアポロ的均衡をみせている。「ミューズをつかさどるアポロ」(後年「アポロ」と改題)は、ロシア出身の振付家ジョージ・バランシンの依頼で作曲したもので、これを皮切りに1962年初演の「ノアの洪水」まで、バランシンの主宰するニューヨーク・シティ・バレエ団のための作品を書きつづけた。

1920年代半ば、ストラビンスキーは精神的危機に直面し、18歳のときにすてたロシア正教会をふたたび信仰するようになった。30年、ラテン語聖書の詩句に作曲した合唱と管弦楽のための「詩編交響曲」を発表。彼の新古典主義はこの作品によってピークをしめすが、その後やや低迷し、マンネリズムにおちいったと評された。しかし39年、第2次世界大戦の戦火をさけて渡米したストラビンスキーは新たな聴衆を前にして創造力をとりもどし、「3楽章の交響曲」(1942~45)で沈滞を脱した。初演当時、世界的人気を博したオペラ「道楽者のなりゆき」(1951年初演)はヘンデルパーセルの作風にしたがっており、新古典主義の集大成とみることができる。渡米直後にはまた、サーカスの象のためのダンス音楽「サーカス・ポルカ」(1942)、ブロードウェー・レビューのための「バレエの情景」(1944)など、生活のために雑多な注文作品も書いた。ハリウッドに定住し、45年、アメリカの市民権を取得した。

IV

セリー主義への接近

1948年、アメリカ人のわかい指揮者ロバート・クラフトがストラビンスキーの友人兼助手となり、彼によって作曲家はセリー主義音楽にふれた。セリー主義とは、和声とメロディの調性的関連を無視し、一連のセリー(音列)によって無調メロディを生みだす作曲法で、シェーンベルク12音技法の基盤となった。ストラビンスキーはかつてシェーンベルクの音楽理論に反発したが、その弟子ウェーベルンの作品には関心をいだいた。カンタータ「トレニ」(1957~58)、ピアノと管弦楽のための「ムーブメンツ」(1958~59)、最後の大作「レクイエム・カンティクルズ」(1965~66)など50~60年代の作品で、ストラビンスキーはみずからの手法と融合させながらセリー主義をしだいにとりいれはじめる。「トレニ」以後は、宗教音楽へのいちじるしい傾斜をみせた。

1962年には48年ぶりに故国ロシアをおとずれ話題となった。67年、80代半ばの高齢と病身をおして指揮棒をとり、最後の自作録音をおこなった。71年4月6日、ニューヨークで没し、ディアギレフがねむるベネツィアの墓地に埋葬された。

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